記憶の、中。




 僕の視界は、人と違うらしい。
 らしい、というのもまるで他人事のようだといわれそうだが、実際他人の視界と自分の視界を比べてみることなど出来ないのだから仕方がない。
 それに、人と見えるものが違うからと言って僕に何か不都合があるわけでもない。
 むしろ。
「僕はそもそも誰とも同じではない」
 だから、別に何も困らない。
 近頃では、僕以外の人間も皆その状況に慣れてしまっているのかそれで困っていることがないように見えるのがちょっと不満だったりもするわけだが・・・・・・。
「あの、榎木津さん?」
 前言撤回。
 一人だけ、まだこの状況に慣れずに困っているのが居た。
 そして、目下の僕の興味は全てこの人物――本島に注がれていると言っても過言ではない。
 じっと見れば気まずそうにもぞもぞと尻を動かして落ち着かない様子を見せるクセに、俯くことなく目はこちらをきちんと見ている。
 このあたりが、あの駄目小説家関口と違うところだろう。
 流され易いところとか、だまされ易いところなんかは似ているけれど。
 時折視線を逸らしながらも、目の前の僕を見つめる本島の瞳に映る僕の姿は不思議と微笑んでいることが多いらしい。
 黒目が人より大きいのだろうか。
 少し眠たげにも見える常に濡れたような眼差しは、何故だか。
「え、あ、あの」
 触れたくなる。
 僕は身を乗り出して伸ばした腕で頬を捉えて、顔を近づけた。驚いたような顔でうろたえた後に、慌てて首を竦めてぎゅっと両目を閉じる姿が可笑しくて、僕は笑いながら、閉じた瞼の上から口付ける。
 舌先で、眼球の輪郭を確かめるように瞼を舐めれば更に本島の体は硬直していく。
「どうした」
 唇は、まだ閉じられた瞼に触れたままそう問えば、何かを言いたげに一瞬開いた口からはけれど何の言葉も見つけられなかったようで。結局、小さく息を吐いただけで手探りするように伸ばした手でそっと僕の手を掴んだ。
 まるで目隠しをされた幼子のようだと思いながら震える睫に軽く息を吹きかけてから、僕は一度離れて親指の腹で目の下にほんのり浮いた血管をなぞった。
 その仕草に、目を開いた。
 彼の瞳に、僕が映る。
 同時に、彼の記憶に僕が映る。
 彼の中の記憶の中の僕が増えることに僕は喜びを得ていると気付いたのは、いつだっただろうか。彼の記憶の中にある僕以外のモノを上から覆い隠すように僕の記憶が増殖していく様を、僕は最初は面白く眺めていた気がするのだけれど。
 彼は、僕ばかり見ていた。
 だから僕の記憶ばかり増えていった。
 だから面白いと思った。
 そして、彼の記憶の中の僕が、まっすぐに僕を向いているものが増えていって。
 気付いた。僕も彼を見ている、と。
 僕の記憶は彼には見えないようだけれど、もしも見えるのならば本島ばかりが増えていく様はさぞ面白かっただろう。
 彼は僕ばかり見ていたから。
 僕は彼ばかり見ているから。
 触れた。
 そして、彼は拒まなかった。
 それ以来。時折彼はこうして僕を訪ねてくる。そして、今日も明日、太陽が昇るまでここから帰らない。
 多分、瞬きのためだろうか。再び瞼が閉じられた時、僕は今度はその唇に口付けた。
 僕の手を掴む本島の指に力が篭る。
 僕は半ば乗り越えかけていた邪魔な机を跨いで、より彼に近づく。
 ソファに座る本島を半ば押し倒しかけたところで。
「先生〜。まだおやつの時間ですよぅ」
 のんきな声で湯呑みを三つ乗せた盆を持った寅吉に、邪魔された。
「邪魔するのか、和寅」
「邪魔もなにもこんなとこで色事おっ始められたら僕の居場所がなくなっちゃうじゃないですか。一応お客様がみえるかもしれないんですから勘弁してくださいよ。それに―――ねぇ、本島さん」
「はぁ」
 寅吉が現れたことに気付いた時点で、本島は俯き頬は羞恥に染まっている。それでも、頬を包むように添えた僕の手を掴んだ手は、離さない。
「あーもう、それ以上するんなら奥に行ってくださいよぅ。僕は本島さんが持ってきてくださったお菓子を頂くんですから。ほら、先生。机の上から降りてください」
 寅吉に促されて仕方なく机から降りて本島の隣に移動する。その瞬間、離れた手を掴んだ。
 そして、空いている手で寅吉が持ってきた湯呑みのうちの一つを奪い取る。
「おやつは、食べるぞ」
「はいはい、でしたら召し上がってくださいよ。本島さんもどうぞ」
 言いながら、本島の前に湯飲みを置き。
「あ、でも先生、最中ですよ」
 笑顔で言い放った寅吉を睨みつけた。
「あの、僕も頂き物で……」
 その表情に、本島も表情を強張らせる。―――僕は最中が嫌いなのだ。
 嫌いなのだけれど。
「じゃあ、食わせてやろう」
 僕は湯飲みをどんとテーブルに置くと最中を一つ掴むなり、中途半端に開いていた本島の口に突っ込んだ。
「あーもう先生、お茶がこぼれたじゃないですか」
 まったく乱暴だなぁとぶつくさ言いながら台所に戻る寅吉には構わずに、僕は本島に最中を食べさせる。
 うー、と小さなうめき声を上げたけれど構わず食え、と促せばしぶしぶ僕の手に自分の両手を添えて食べ始めた。
 咀嚼し飲み込むなりまた押し込めば、少し涙目のままどうにかこうにか最中を一つ食べ終えて。
「餌付けの気分だ」
 そう言ってやれば、ひどいですよ、と小さく返される。寅吉の入れたお茶を一口飲んで、ようやく落ち着いたのか。
「でも、榎木津さんはどうして嫌いなんですか」
「本島さん、先生にどうして、は禁句ですよ〜」
 布巾片手に戻ってくるなり軽口を叩く寅吉は一切無視して、僕は言い放ってやる。
「もさもさする菓子は嫌いだ」
「先生は、クッキーとか最中とか、そういうパサパサした水分のないお菓子がお嫌いなんですよ」
「はぁ」
 もっともらしく言葉を続ける寅吉に曖昧な返事を返す本島の、伸びきった眉間をピンと指ではじいてから、僕は本島の腿に頭を乗っけて足をソファから投げ出してゴロンと横になった。
「あ、あの」
「オマエは和寅と最中を食うのだろう! 僕は寝る! 終わったら起こせ」
 それだけ言って、目を閉じた。
 頭の下は、女のそれと比べれば少し固いけれど。
 この体温が心地いい。
 あぁ、本当に眠くなってきた。
 僕は大きく欠伸をして。何かを言う寅吉の煩い声と戸惑いがちに僕の名を呼ぶ本島の声を聞きながら、うたた寝という無意味で有意義な時間に飛び込んだ。






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