酔郷に彷徨う |
頭が、痛い。 残響音のような曖昧さなのに、強烈に頭蓋骨の内側を刺激するような痛みに、昏睡に近い状態の意識が混濁したまま無理やり浮上させられるような、不快な感触に僕は唸った。 しかし、小さな唸り声などすぐにかき消され、僕はここがどこなのかすら正しく認識できないまま、割れそうに痛む頭を押さえるために腕をあげようとした―――ところでようやく体の異変に気づいた。 「う、腕……」 腕が、動かない。 いや、腕だけが動かないわけではない。 体を覆う何かのせいで、身動きが取れないのだ。 けれど、体は何か柔らかいものの上に横たえられているようで全身が苦痛を訴えているわけではない。 意識はひどくぼんやりとしていて、肌の上をなんだか暖かいものが包んでいるような気がする、というくらいしか現状を認識できない。 しかし、わずかでも体を動かせば耳の奥で金属を打ち鳴らすような音が響いて、その音が鼓膜を先の尖ったものでひっかいてでもいるような痛みが脳髄を駆け抜けて、結局僕はもう一度目も開けぬまま小さく呻いた。 あまりの痛みに、戻りかけの意識をもう一度なかったことにすることなどできずに、目を閉じたままそのほんのり暖かい場所で身を縮めていると。 頭の上で何か声がした、気がした。 そして、僕の体を包んでいる暖かなものがもぞもぞと動いて、それが背中を撫でたところで。 「……え?」 僕はようやく、この状態がただことではないことに気がついた。 体を包むようにかけられている柔らかな布地に触れているのは自分の素肌で、さっき背を撫でたのは人の手だったような気がした。 そして、まぶたを開ければ、薄暗がりの中すぐ目の前にある何かに、無意識で触れた。 暖かで、肌色の、脈打つ。 まとまらない思考のままそろそろと顔を上げて、ようやくそれが人の体だと知る。 「あれ………」 自慢にもなりはしないが、僕には妻がいないどころか風俗にすらいったことがない。見かけも中身も凡人で、平々凡々とした毎日を送るしがない電気図面書きだ。出会いもなければドラマもなくて、添い寝するほど親しい女性など子供時分の母と祖母くらいしかいないのだから、こんな風に・・・朝目覚めたら隣に誰かが寝ているなんてことはありえない。 それに、さっき触れた添い寝の相手の体には柔らかな胸の代わりに平たく程よく筋肉質な胸筋がありそれはまるで男の体のようで―――そこまで考えて、僕はがばっと布団を跳ね除けて起き上がった。 昨夜、どこで何をしていたか、唐突に思い出した。 そうだ、そもそもここはいつも僕が寝泊りしている長屋とは大違いじゃないか。いつも僕が寝ているのは敷きっ放しではないけれどたいした手入れもしていないままかなり長いこと使っているせんべい布団で、こんなふかふかの柔らかな布団じゃない。 それに、僕は裸で寝たりなんてしない。なのに、何故今日は寝巻きを着てないんだ? というか、人の家で裸で、隣には同じように裸の男。一体どういうことなのかまったく理解できないままでいると、物音を聞きつけたのか部屋の扉が僅かに開けられた。そして。 「あぁ、起きたんですか、本島さん」 「あの……はい」 顔だけ出した寅吉に声をかけられて間抜けにも素っ裸のまま頷く僕は少しだけ哀れそうな顔をされ、朝ごはん用意しますねと扉を閉められてしまった。 あたりを見てみれば、調度品といい部屋の内装といいまったく見覚えすらない。しかし、寅吉が顔を出したということ、そして似合う人を探すほうが難しいような妙ちきりんな服が散乱したこの部屋はもしかして。 顔を覆うように隠していた片手が何かを探すように伸びてくる。 その手は僕の腰のあたりをうろうろした後に腰を抱くようにして落ち着いてしまう。そして、斜め下、眠っている榎木津礼二郎のまるで作り物のように白く透き通った顔を見つけてしまって。僕は慌てて、床から高さのある西洋風の寝台から転げ落ちた。 そうだ、思い出した。ここは、薔薇十字探偵社だ。 昨夜、僕は。 飲めもしない酒を竹馬の友であり隣人でもある近藤に付き合わされた。いつも金欠に苦しんでいる紙芝居絵師の近藤にしては珍しく、臨時収入があったとかで名目だけは「日ごろ世話になっているから」などと言って誘われたのだけれど、ようは一人で飲むのは味気なかっただけだろう。 半ば無理矢理にいつもの作業着のまま連れ出された。 普段は飲むと言っても安酒を家でちびりちびりやる程度しか知らない。それなのに、初めて連れて行かれた店でさぁ飲めやれ飲めと店員だけではなく周囲の客にまで煽られ断りきれずに一体どれくらい飲まされたのだろう。 近藤も、僕が酒を飲めないことなど判りきっているだろうに、今日に限って何故止めてくれなかったのか。初めて飲んだ大量のアルコールのせいで、足元はふらつき目は回っているのにひどく気分は昂揚していて、近藤にほとんど抱きかかえられるようにして店を出た。 そして、家までの帰り道で榎木津と偶然会った。 そこまでは覚えている。しかし。 それからどうして、僕はここへ来て、しかも榎木津と一つ閨で寝ることになったのだろうか。 考えたけれど。 「朝ご飯、出来ましたよ〜」 ノックとともに扉の向こうからそう声をかけられて、僕は慌ててはいと返事をした。返事をしてから、もう一度隣に眠る榎木津を見て、扉の向こうにいる寅吉のことを思い出して。とりあえず、服を着ようと思った。 ご丁寧に下着すら身に着けていないという目も当てられない状態で、まだ寝入っている榎木津にこんな姿を見せてしまったのかと思えば恥ずかしくてすぐにここを飛び出して逃げ帰りたいくらいだ。けれど、全身を支配するのはなんとも言えない倦怠感で、相変わらず頭痛は続いているし、動くのすら面倒くさいと思いつつもいつまでもこうしているわけにはいかず、何故か痛む腰に違和感を感じながらもどうにか脱ぎ散らかしたままの衣服―――と言ってもいつもの作業服なのだが―――を身につけ部屋を出た。扉をあければ、寅吉一人が応接のソファでのんびりと新聞を広げていた。 「おはようございます・・・・・・」 今更のようにも思ったが、とりあえず挨拶をすれば、もう朝じゃないですけどおはようございますと半分笑われながら返されて。 寅吉自身も「朝ごはん」と言いつつも壁に掛けられた時計を見てみれば既に時刻は昼を回っている。しかし、この奇人変人しか集わない薔薇十字探偵社において世間と時間がズレていることなど、瑣末なことでしかないのだろう。 しかし、それだけ言って榎木津の私室―――なのだろう。壁一枚隔てただけでこの散らかりようは明らかに他人を呼べる場所ではない、というかそこに何故自分が寝ていたのかいまだに思い出せないのだが―――と応接の境目で立ち止まってしまった。 近頃は一緒にいることも増えたけれど友人とも言い難い付き合いの人間の相手の家で裸で眠りこけるような失態をしたのは初めてで、どう詫びればいいのか分からず言葉を選んでいたのだけれど傍から見ればぼんやりと突っ立っているだけのように見えただろう。そんな僕に呆れたような顔をして何か言いかけた寅吉よりも先に、背後で物音がした。恐る恐る振り返れば、ベッドの上に起き上がり寝乱れた髪のまま部屋を見回した榎木津が、僕を見つけた。そして、何かを確認するように僕の頭の上をしばらく眺めてから、こちらは下着だけは身に着けた姿で布団から這い出てきた。 榎木津はにやにやと笑って僕を見ていて、しかしその頭でどんな途方もなく尋常じゃないことを考えていようとも口を開かなければこの男ほど見目麗しく、綺麗なモノとはこれまでまったく縁のなかった僕は、半裸の状態の榎木津にただじっと見られているという状態だけでもう何がなんだかよく分からないまま呆然としてしまって。 「先生も起きたんですか〜?」 どこかのんびりとさえ聞こえる寅吉の声に、ようやく我に返った。 しかし、一瞬遅かったらしい。 「起きたぞっ」 叫ぶ、というのが正しいだろう音量で寅吉に応えを返すなり近寄ってきた榎木津の腕に拘束された。 「おい、バカオロカ! おまえはまた泣かされたなっ」 「そんな風に嬉しそうに言うこたぁないじゃないですか、酷いですよ」 「泣かされてくるお前がオロカなのだ、泣かされたら負けだ、負け。おまえは常に負けっぱなしだ。そんなんじゃおまえはそのうちセキタツになるぞ、むしろおまえもセキタツだなっ」 「えぇっ、そりゃないッスよ、関口さんと同じはあんまりです」 おい、セキタツ二号!と言うなりバカにしか見えない高笑いをする榎木津は、何故か、本当に何故か、僕の腿に頭を預けて寝そべっている。 今もそうだが、起きてから、朝飯を食っている時間を除いて榎木津は常に僕の体に触れている。その真意は判らないけれど、他人との接触に極端に不慣れな僕は、この状態が普通なのかどうかの判断すら出来ず、結局押し切られるように榎木津のなすがままになっている。どちらにしろ、これまでに一度として榎木津の思惑など読めたこともなければ榎木津の意思に抗えたためしなどないのだけれど。 そして、今も。昼もとうに回っていて、これから出社するにはいささか微妙な時間でさてどうしたものかと悩もうとした時にはすでに榎木津の腕が僕を掴んでいて、半ば連行されるように連れて行かれたのは来客の対応などをしている三人がけの応接のソファだ。そのソファの隅に僕を座らせるなり榎木津は今の状態で、折りよく顔を出した益田を向かいに座らせ罵っては馬鹿笑いをしている。 「本島さんはいいんですか?」 「いいというかなんというか・・・・・・」 さっきまで半泣きで笑われていたというのに、変わり身の早い益田が、それ、それ、と嫌そうに顔を顰めて指をさすのは、僕の膝の上にある榎木津の頭だ。榎木津はいろんな意味で人間離れしているので俗世的な概念は当てはまらないけれどもそれでも30過ぎの男に変わりなく、僕はと言えば見た目も中身も冴えない、こちらも30過ぎの男だ。いい年をした野郎二人のいわゆる膝枕状態というのは視覚的にもなんとも言えないものだろう。 そして、それが判っているのに抵抗ひとつできていない僕はといえば。 どうも今朝から続いている頭痛は二日酔いらしい。病気ではないのだから飲む薬もなく、本当は静かなところで寝ていたいところだけれど、そんな甘ったれたことは許してもらえないらしい。榎木津の大地を震わすような罵声が痛む頭に響く。 「本島さんも麦茶、飲みますよね」 「はぁ、どうも……」 じっと痛みに耐えている僕を見かねたのか寅吉が手渡してくれた湯呑みは冷たく、そろそろと一口含めばよく冷えた麦茶だった。ひりひりするような痛みを伴った喉を伝う冷たい感触が気持ちよくて、ほっと息をついたのも束の間。 榎木津が突然むくりと起き上がったせいで、僕の腕にぶつかって。あ、と思った時には手にしていた湯呑みは傾いて、その中身を僕の腕と榎木津の肩のあたりに零してしまっていた。 「あーあーもう。何をしてるんですか」 慌てた様子もない寅吉がのんびりと言うなり台所に消えていく。その後姿を目の端で捕らえながら、僕はといえば。 「あの、榎木津さん・・・、ご、ごめんなさ―――」 すがめた目は、てっきり怒っているのだろうと―――勝手に僕の膝の上に転がっていたのは榎木津自身なのだから、僕が怒られるいわれはない、と思いつつも実際に睨まれてしまえば気弱な僕は何かを言い返したりできるわけもなく―――謝罪の言葉を口にしかけたところで、息を飲んだ。 僕の手は、濡れていた、から? 湯飲みを取り上げるなり、榎木津は僕の手を掴んで濡れた指を口に咥えた。そして、隙間から覗いた舌先が、指を伝う麦茶の水滴を舐め取った。 あまりにも艶かしい仕草と卑猥な感触は、明瞭に思い出すことが出来ない昨夜の記憶の、感覚の部分だけを僕の神経に遡らせるから。 「あ、え、あ・・・・・・」 何を言いたいのか分からないままに咄嗟に口を開いてしまい、結果自分の口から出たのはあまりにも子供じみた言葉にもならないうめき声で、その声の拙さに僕は赤面した。 しかし、そんな僕のあわてっぷりすらおかまいなしなのか、それとも面白がっているのか。 眇めた目で見上げられて、僕は息をするのも忘れてその目を見つめることしかできなくなる。 その顔は、まるで西洋の人形のようで触れたら冷たそうにさえ見えるのに指を伝う舌先は熱くて、濡れてもいない指まで唾液で濡らされているというのに襲いくる非現実的な現実を理解することが出来ずに捕まれた腕を振り解くことも忘れていて。 「あーもう、本島さん、何してるんですか」 寅吉のあきれたような声でようやく我に返った。と同時に、ようやく榎木津も指から唇を離したけれど、もう既に麦茶で濡れた場所がどこなのか分からず、むしろ榎木津に舐められたせいでそこかしこが濡れて窓の外から入る光をわずか反射させていて。 「あ、あの」 頬が赤くなるほどに扇情的な何かを連想させて―――その連想したものが一体なんなのか、具体的に思い出す前に思考は寅吉の声に遮られた。 「先生に何言っても無駄なのは分かってますけど、本島さんまでそんなこと黙ってされてないでくださいよぅ。もう少し抵抗くらいしてください」 しかし、手、拭いてください、と差し出された布巾は榎木津に奪われてしまう。 「あ、あの、榎木津さん・・・?」 「ふん、気に入らないな」 「え?」 頭の上あたりを半目で睨み付けたあとにそう言われた、ということは。 僕の見た何かに対してそう言われたのだ、ということだけは推測できたけれど。いつものようにそれ以上の説明は与えられないまま、僕の手を掴んで濡れた指先と腕と、そして自分の肩をおざなりに拭いてから、寅吉に布巾を返した。 そんな榎木津の様子を、寅吉は珍しいものを見るような目で、益田は気味悪そうに見ている。二人が榎木津に向けた視線を隣に座る僕も一緒に感じてしまって、いたたまれない気持ちでもぞもぞと座りなおせば、今度は隣に座った榎木津の腕に腰を掴まれた。 「ひぇっ」 思わず声を上げて背筋を正せば、逃すものか、とでも言うように腰に回った腕に力が篭るから榎木津との距離はさらに縮まって、お互いの体温さえも感じられる距離感に僕は思考を放棄した。 榎木津はそんな僕にまったく構わず、今度は暇だ暇だと騒ぎ出し、暇なのは益田のせいだと結局益田を罵っていた。多分、これが薔薇十字探偵社における日常なのだろう。寅吉も、益田をかばうどころか一緒になって益田をからかっている。 そして、言われっぱなしの益田は、と言えば。こちらも言われなれているのだろう。僕ならば一生立ち直れなくなりそうな罵詈雑言を浴びせかけられているにも関わらず、ひどいですよ、と言いつつも言われたことに特別傷ついているわけでもないらしい。 腰に回された榎木津の腕から逃れることもできずに―――あれだけ喧嘩が強いということは、それだけ腕っ節も強いということなのだと今更ながらに理解しながら、僕は自分の常識の限界を超えた現状を受け止めきれずにぼんやりする頭のままそんな会話を聞いていると。 気付けば、意識が遠のいていって。 瞬きのつもりで閉じた瞼が重く、目を閉じたままぼんやりしていれば。 「あれ? 本島さん」 益田に呼ばれた気がして、返事をしなければと顔をあげようと思ったのだがどうにも億劫でそのままでいると、体ごと引っ張られて暖かい何かに包まれた。 それが、榎木津の腕に引っ張られて榎木津の胸に倒れこんだせいだと気付けないまま僕はそのまま完全に意識を飛ばした。 目が覚めれば、僕は一人で榎木津のものと思われる部屋の寝台に居た。 全身に漂う倦怠感と疲労感はまだ抜けきらないけれど二日酔いはマシになったのか頭痛は消えていて、少しだけほっとしつつ起き上がる。 分厚いカーテンをめくってみれば、外はすでに夕焼けの橙色に染まっていて、他人様の家にお邪魔しているにも関わらず、昼過ぎに起き出して飯を食うなりまた眠りこけて、すでに夕方になっているという人としてあるまじき怠惰さに僕は青くなった。 慌てて掛け布団を跳ね除けたあとにきちんと寝台をもとに戻してから部屋を出れば、応接の脇にある、まるで何かの冗談のように「探偵」と書かれた三角錐の置かれた机に足を投げ出すような格好で、榎木津も・・・・・・寝ていた。 「あの、寅吉さん?」 それを横目に見ながら、応接のソファで新聞を広げている寅吉に声を掛けた。益田は既に帰ったあとらしい。 「あぁ、やっと起きましたか? まったく本島さんも寝過ぎですよう、うちの先生の眠り病がうつっちまったかと思いました」 「眠り病?」 初めて聞く病名に首を傾げれば、あれですよあれ、と寅吉は榎木津を指差す。 「先生、何もなければ十二時間くらい平気で寝た上さらに昼寝してたりしますからね。何かの病気じゃないかと思って医者に行くよう勧めてはいるんですけど、本人があんまり医者がお好きじゃないから」 「はぁ」 確かに、病気であったとしてもおかしくない程度には異常だけれど、榎木津の場合存在すべてが普通じゃないのだから少しくらい人より睡眠時間が長くても不思議でないように見える。むしろ、あれだけ強烈に毎日を送っているのならばそれくらい眠らなければ体が続かないんじゃないかと、毎日平々凡々と変化も刺激もない毎日を送っている僕などは思うのだが。 そんなことをつらつらと考えていると、話し声に気が付いたのか榎木津も目を覚ました。 寝ぼけているのだろうか。平素よりもぼんやりとした視線で僕を見て、寅吉を見て、もう一度僕を見てから。 「体は大丈夫か」 突然聞かれた。 どうしてそんなことを聞かれたのかなど判らなかったけれど、判らないなりに自分の体のことを聞かれたことは判ったから。 「はぁ、まぁ・・・・・・少し疲れてはいますけど」 「あれだけ寝てまだ疲れてるんですか?」 呆れたように寅吉に言われてしまい、しかし今更言い直すのもおかしいと思い、すみませんと謝った。 確かに、体力なさそうですよねぇと言われてしまえば曖昧に頷くことしかできず、そんな僕をただ見ていただけの榎木津が。 「夕餉」 一言、そう発した。 「今から用意しますよ。―――本島さんも一緒にどうぞ」 「え、いや、僕は」 「いいからいいから、どうせ帰ったってご飯を作ってくれる人なんていないんでしょう」 明日は仕事もありますし帰ります、と言いかけたけれど寅吉の失礼だけれど事実を言い表した言葉に遮られてしまって、僕は夕飯まで頂くことになってしまった。 寅吉の作る飯は、食事というよりも酒の肴と言ったようなものばかりで不思議に思っていれば出てきたのは一升瓶。 「あの、これ・・・・・・もしかして」 「お酒、飲まれるんですよね?」 寅吉ににっこり微笑まれてしまう。 「いえ、あの・・・・・・酒は」 「飲んでいただろう、その熊猫男と」 榎木津は昨日の僕の記憶を見ているのだろう。確かに、昨日は飲まされた。何故だか判らないけれど、しこたま飲まされた。それで正体不明になって丸一日人様の家に厄介になっているのだから、どうにも言い訳ができない。 「飲んだんですけど」 「じゃあどうぞ」 渡された湯呑みを受け取りつつ、僕は小声で控えめに申告した。 「飲んだせいで・・・・・・記憶がないんですけど」 「えぇっ?!」 大きな声を出した寅吉が一升瓶を掲げたまま凝視する。 「まさか、何も覚えていないんですかっ?」 「いえ、全くってわけじゃないんですけど・・・・・・」 言い澱めば、寅吉には興味津々の表情で覗き込まれ榎木津も珍しく黙って話しを聞いてくれる体勢を取られてしまい、言わないわけにはいかなくなってしまって。 「飲んでる最中も怪しいんですけど、店を出てから榎木津さんにお会いしたのはなんとなく」 「酒を飲むと忘れるのか?」 無駄に綺麗な顔をしているせい、だろう。無表情になると途端に生気がなくなりまるで作り物のようになるから―――綺麗過ぎて、ただ見られているだけなのにどきりとする。 しかし。 「面白い! 酔っ払って陽気な本山くんはそれは面白かったけど、しかしそれを覚えていないというのはもっと面白い! 和寅、今日は飲むぞ!」 一言発すれば、今度は無駄に生命力に溢れ返って、綺麗どころか知性すら感じられなくなってしまう。しかもまた名前を間違えられている。 「今日はって先生はいつも飲んでるじゃないですか」 「さぁ、本瓦くんも飲むぞっ」 寅吉に酒を注がせた湯呑みを高々と掲げ、一人空中に乾杯をすると中身を一息に煽った。 「いや、だから、あの・・・・・・」 「京極堂のように湿気りたくなければ君は毎日飲んで陽気にしていたらイイっ! どうせ馬鹿なのだからいっそそれくらい見た目にも馬鹿なほうが潔いぞ」 うわははは、と僕には絶対できない豪快さで笑うなり、さぁ注げどんどん注げと寅吉を急かす。榎木津の湯呑みに酒を満たす合間に僕の湯呑みにも酒を注ぎながら。 「でも、もしかして今日一日中、どうしてここにいるのかわかってなかったんですか?」 「正直言えば・・・・・・」 「ほんとに、のんびりした人ですねぇ」 心底呆れたように言われてしまえばうつむいて恥じ入るくらいのことしかできなくて、仕方なく、手にした湯呑みの酒を舐めた。 比較的呑み易いものを選んでくれていたようで、たとえ聞こえてくるのが榎木津の罵声でもおいしいと思いながらちびりちびりとやっていると。 「でも、昨日先生が本島さんを連れてきた時はびっくりしましたよ」 自分も呑みながら言う寅吉の言葉に、ひやりと冷たい汗が背中を伝った。 「え、あの、何かしました・・・・・・?」 前後不覚になるほどに酔っ払っていたのだから、何かをしでかしていてもおかしくはない。その事実にようやく思い至って、恐々問いかければ。 「何かっていうか・・・・・・」 人の悪い笑みを浮かべる寅吉に、聞きたいような聞きたくないようななんとも言えない気分になっていると、まだほとんど中身の減っていないコップにまた並々と酒が注がれる。これじゃあいつまでたってもなくならないどころか、自分がどれだけ飲んだかすら判らなくなる。 「じゃあもしかして、先生と何をされたかも覚えてないんですか?」 「え、と。僕は何かしたんでしょうか?」 不安になって、榎木津を伺い見れば、榎木津も僕を見ていて。 「喜べ、親切な僕が後でゆっくり教えてやろう」 その笑顔に、僕の不安は倍増しになる。 しかし、始まってしまった酒宴をとめられるものはここにはいない。いや、それがなんであれ、榎木津の行動を阻止できる人間などいないのだ、この世には。 結局、そのまま勢いで酒を飲まされて僕はすぐに酔っ払って、浮遊感と酩酊の間をふらふらとしていた。座っているはずなのに、体が浮き上がるような不思議な感覚と、なぜか無闇に楽しくて酒を注ぐ寅吉を指差しては笑っている。 おかしなことをしていると頭のどこかで分かっているのに、まったく制御できない。 「酔っ払うと人が変わるってのはまぁ、結構居ますけど。この人のこれはまた特別ですねぇ」 「なに、言ってんですかぁ〜」 声は上ずって、語尾は子供のように舌足らずに延びて、みっともないことこの上ない自分の言葉さえも可笑しくて一人けらけらと笑っていれば、榎木津に顎を掴まれた。 「ん?」 真正面から見据えられて、目の前いっぱいに広がる世にも綺麗な顔に馬鹿正直に「綺麗ですね」と呟いてしまえば。 にやりと笑った形に歪められたままの榎木津の唇が、触れた。 僕は無意識に開いたままの唇の隙間から入り込む舌に答えるように絡めて返せば、くぐもった水に濡れた音が小さく鳴る。口の中に進入する異物の感触に、何かを思い出しかけたのだけれど何を思い出したのか、に思い至る前にそれは離れてしまう。 そして。 「先生。それ以上はせめてお部屋に戻ってなさってくださいね」 まったく先生も物好きだなぁとぶつぶつ言いながら机の上を片付け始める寅吉に半ば追い立てられるように、僕は榎木津の自室へと抱えられるようにして連れて行かれた。足に力が入らず、全体重を榎木津にかけてしまっているのは分かったけれどどうにもならないし、榎木津はよいしょ、と言いながらも腰のあたりを支えて僕を悠々と運んでいたから別にそれでもかまわないような気がして。 「榎木津さん、歩けませんよぉ」 甘えるようにそう言えば。 「だからこうして引きずっているじゃないか」 「ん、え、なにがですか?」 もう自分が何を言っているのか何を言われたのかも分からないけれど、酔っ払いめっ、と罵る榎木津の口調はどこか楽しげだったから、僕もつられてあははと笑ってしまえば、さっきまで寝ていた榎木津の私室へ再び連れ込まれ、そして。 「うわぁ」 寝台に放り投げられた。 柔らかな布団に体が弾み、突然ひっくり返った視界に一瞬天井が見えたけれどそれはすぐに榎木津の恐ろしいほど造作のキレイな顔に遮られて。 「あ」 何を思ったわけではない。しいて言うなら、間近に見た榎木津の顔があまりにもキレイだったせいだろうか。阿呆のように口を開けて間の抜けた声を出せば、榎木津は淡く色づいた唇の端を持ち上げて―――それが、笑顔という種類の表情なのだと気付く暇もないまま、僕の視界は榎木津の作り出す陰に覆われて暗くなる。 そして、唇に暖かく柔らかなものが触れた。 酒に溺れた脳味噌は形を確かめるように触れるその感触をただ目を閉じて受け入れることしかできず、触れるのは唇だけではなくて、榎木津の節ばった細く白い指がわき腹を撫で作業服の上着の釦をはずしズボンの前立てまでゆるめていることにさえ気付かなかった。 アルコールの作用でただでさえ常よりも早まっている鼓動が、触れ合わせた唇に呼吸を奪われて更に速度を増していく。息苦しさを感じて、僕はだるくて放り投げていた両手に力を入れて、まるで僕に圧し掛かるようにしている榎木津の肩を押しのけたつもりだったのだけれど。 口を塞いでいた唇が喉元に移動したせいで目測が誤ったのか、そもそも力の入っていない僕の両手は榎木津の肩を掴むことすらできず。 「うんっ」 軽く噛付かれ、小さく走った痛みに僕は腕の中にあった榎木津の首にしがみついた。 まるで、寝台の上で抱きつくような格好になっていたなんて、気付いてもいなかったのだけれど。 くらくらする頭で、一体何が起こっているのか考えようとする矢先に、榎木津の唇がどこかに触れるからその度に何も考えることができなくなって、離れる瞬間の喪失感が怖くて小さく震えればまた触れられる。 素肌の至る所に触れる柔らかな感触がこそばゆくて身を捩ればさらにきつくその場所を吸われ、どこからか聞こえる嬌声が自分の声だということすらうまく認識できない。 途切れ途切れの記憶と意識の中、そんな浮遊感にもにた感覚を繰り返していると、ふと、自分の体の全てから榎木津の感触がなくなった。 それに気付いて目を開ければ。 目の前に、全裸の榎木津が居た。 「な、な、え、あ、」 言葉をなくして榎木津を指差せば、胡乱な目をした榎木津が近づいてくる。 無言のまま顔を間近で覗き込まれて、榎木津は体も含めて全てきれいなのだなぁなどとぼんやり思っている隙に、その綺麗な唇が足の付け根に触れて。 「―――えぇっ!?」 同時に片足を持ち上げられて、内蔵を抉られるような感触に息を飲んだ。 「何を今更正気付く!」 「今更って、いうか、え、あの、んぁっ」 気付いたというか、この状況がまったく理解できない。 「ここもすでに準備万端にしたじゃないかっ」 「知りません、知りません、何がですか、準備って・・・っ」 「ほら、もう簡単に二本入る」 それと同時に、体の内側を何かが動き回る。 「な、な、何がっ・・・・・・!」 「ほら、これでもう三本だ!」 言われて、自分の体を見下ろして。 絶句した。 あられもない事に僕の一物はこれでもかというほどに勃たちあがり、その奥には榎木津の手が押し込まれている。 この状況をまったく理解できないまま改めて榎木津を見上げれば、にやにやと笑われた。 「お前が忘れた昨夜の、やりなおしだ」 「え、それは、一体」 問い掛けるのと同時に、臀部に触れる固い感触。 内蔵を抉るような異物が消えたと思った瞬間に、さらなる質量の何かが侵入してくる。 「痛っ、あの、いっ・・・・・・!」 「昨夜のお前はすぐに腰を振っていたぞ! さぁ少し力を抜け!」 「昨夜って、ていうか、無理です、榎木津さん、無理・・・・・・あぁっ」 「大丈夫だ、すぐにお前も涅槃を見るぞ!」 何がどうなっているのか。 結局、最中には何一つ理解できないまま、全裸の榎木津に翻弄され続けてこの夜も、榎木津の部屋で意識を飛ばすように眠りこけて。 翌朝。 またもや頭痛と腰の痛みで、目を覚ました。 |