てのひらの体温




描いていた、想いが。消える。
夢見ていた、今が。溶ける。
時が全てを支配し得るのなら。
時だけはあの方でさえ止められなかったから。


眩めく、記憶が。揺れる。
繰り返された、過去が。蘇る。
そこに在るのは永劫の闇。
それが罰だと言うのなら。
たとえあの方の名を汚す事になってしまったとしても。



終わりに、しよう。
あの、空の下――――――――――







目の前に迫る塊と化した気の流れが、一瞬視界を白く染める。それを片手で薙ぐように防いで、眼前の見知った顔を持つ人影に攻撃の刃を放とうとする。
刹那。
フラッシュバックのように襲うのは、驚いたように見開いてこちらを見つめる少し色素の薄めな眸。そして、辛そうにその眸が伏せられる様。
あぁ、その眸は、想起させる。
赤茶色の髪も、元は色白なのであろう皮膚をほんのり日焼けさせた肌も、世間を斜めに見たような必死に大人びようとする表情も、ほんの少し釣り上がった眦も、全く似ても似つかないと言うのに。
確かに、力はあるのだろう。
正妻の息子である長男を凌いでまで次期当主にと渇望されるだけの、実力が彼の身の内には備わっている。
けれど、その器は。
全てを受け入れ家の為にその身を惜しげもなく捧げた兄に守られたが故に、切り捨てねばならなかった人らしさを保ったまま。
現実から逃げるという選択肢を与えてしまい、そして彼は外側を見てしまった。
外側から見る内側の状況の滑稽さや、世界の狭さ。それを知った彼が、『本家』という彼を縛り付けようとした組織に、そして彼の兄を縛り付けている組織に唾を吐き捨てるがごとく嫌悪したとしても、何ら不思議はない。
彼の、声にならない罵声が聞こえるようだ。
どうして、思うように動くコトすらままならないのか、と。
そして、御景を継ぐと宣言した以上、その言葉を自ら吐いてしまうワケにはいかないと思うくらいには、分別の付いてしまった彼は、更に苦悩するのだろう。
奥歯を、ぎゅっと噛み締めて。
家を、兄を疎ましく思う気持ちと、自分もそれを無理にでも受け入れなければならないのだと思う気持ちの間で。
それでも、彼はもう判ってしまっているから。だからこそ、心が更に規則に反発しようとしてしまう。
いや、反発し、そして抵抗してきたからこそ、それができたからこそ彼は外と繋がる事ができた。本家という柵に満ちた小さく、そしてある種の人間の全てを象徴する世界から飛び出して。
それ故にあの脆弱な精神のまま、彼の彼らしさを失わずにいられたのだろう。
『自分の意志』で動いていると。
人である、と。動物ではなく、動かされる人形ではなく、人であり続ける事ができたのだろう。
今まで。
その、まだ自分からみたらあどけない程の表情を垣間見せるその顔が、悲しげに歪む。
視線に込められた感情が、突き刺さってイタイ。
あの公園での対峙の時、ほんの一瞬だけ彼の双眸に浮かんだ色。
あぁ、その色は。
その色の中にある、現実を受け入れたくないと逃げだしそうになるその弱さは。
彼の優しさの証明。
甘えていると言い捨ててしまうのは簡単だけれど、その甘さを捨て切れないのが彼の優しさのカタチなのだろう。
その優しさが脳裏に去来して、微笑みたい衝動に駆られる。
その身が放出する気の基礎となる部分に存在するのが、彼自身の持つ優しさだと分かれば、彼は一体どんな反応をするのだろうね?
それは次期当主としては隠さねばならない、敵にも味方にも付け入る隙を与えてしまうモノなのだろう。
けれど、なくして欲しくないと、変わらぬまま居て欲しいと思ってしまった。そして、彼にとっては理不尽でしかないその望みの奥底にある自分の思いに気付き、切なさが募る―――


彼の優しさは、あの方を幽かに思い出させる。
あの方の持っていた優しさとどこか似ていて。
願わずにはいられない。
強くあれ、と。
その優しさはまだ未成熟で、弱さを内包しているから。
痛みから逃れようとしてしまうから。
その弱さが、彼自信を傷付けてしまいそうで。
溢れ、零れ落ちる切なさに動きが止まる。誰に対しても躊躇わずに振り下ろした攻撃の刃が、彼のその表情一つでフリーズしてしまう。その眼差しに込められた、一欠片の優しさが、胸を打つ。
……まだ、こんな気持ちになれる自分が居たことに、驚いて。
頬を伝う冷たさに驚愕する。
思ってしまったのだ。
この男と離れたくないと。
この男の側に居てやりたいと。
それでも。
コマは進むしかない。
後戻りは、許されていない。


失われた時を戻すことは、彼の人ですら許されなかった。


それでも、伸ばした手の先で、彼の腕を掴んだ。
手の中の感触が、白濁とした混沌に落ちて行く。
「三吾っ……」
最後にその名をようやく呼んで、そして意識は遠ざかる。
もう、戻れない。
この手を離したら、もう二度と…



目覚めれば、そこは既に見慣れた白い壁と飾り気のない天井だった。そして、ようやく夢であったと気付く。
濡れているような気がして触れた頬は、乾いていて、それも夢であったのだという認識に追い討ちをかけた。
まるで、これまで生きてきた長さの中で、ほんの一瞬を過ごしたのみである彼のために流す涙など、自分の中には存在していないと言われているような。
それでも、あんな夢を見るほど、センチメンタルな感情が自分の中にまだ残っていたことを自嘲気味に思い、笑い飛ばそうとして胸が痛んだ。
傷は、確かにあるのだ、ここに。
それでも、その傷は目に見えないから。
「おぉい、ユミちゃん、朝飯できたでぇっ」
ドア越しに呼びかけるあの声が、今在るモノ。
聖さえ、笑っていてくれるのなら、俺は救われる。
今は、まだ少し痛む傷口も、きっと時間が薄れさせてくれる。
全てが。
過去に変わる。
思い出と言う名の脳細胞に刻まれた記憶に。
そして、その記憶も更に降り積もる記憶にオブラァトのように包れて、脳裏の片隅に追いやられていくのだ。
それなら、せめてこの手で触れることのできる今を守って行くために。
また、屍を積み上げるだけ。
そこに、例え見知った顔があったとしても。何も珍しいことじゃない。
起き上がり、物は悪くはないが視覚的魅力はかけらも持たないベッドから降りる。
ギシと鳴る無機質な圧迫音。
裸足で触れた床の冷たさが、背筋を這う。
どれだけの人を死に追いやったのだろう。
どれだけの命を途絶えさせてきたのだろう。
どれだけの想いを破壊してきたのだろう。
――――この手は。
あの方に許されて、罪が消えたと思っていたのだろうか、俺は。
所詮、血にまみれ薄汚れたこの手で今更何ができると思ったのだろう。ただ一つの存在を守り切ることしかできない、この手を。
そのためには、全てを捨て去ってしまうだろう、この手で。
夢の中でさえ身を切り裂くような痛みに襲われたその行為を、いとも簡単にこの手は成し遂げてしまうだろう。
……いや、夢の中だからこそ、感じられた痛みなのか。


それでも。
思わずにはいられない。

この手を、離さずにいられたなら。





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