I feel your kiss
葉末→薫




「あら、薫。もう出かけるの?」
 僕が顔を洗い終えてまだパジャマ姿のままで洗面所から出てくると、キッチンからお母さんの声がしたと同時にパタパタとスリッパの音がする。
 僕も急いで玄関へと向かう。
 兄を、見送るために。
 僕はお母さんの横に並んで立った。
「おはようございます、兄さん」
「あぁ、おはよう。今日もちゃんと自分で起きれたな」
「はい」
 きつい目つきを僕にだけは優しく細めて頭を撫でてくる兄を見上げて、僕も笑う。
「じゃあ、気をつけていってらっしゃい」
 お母さんが言いながら、もう自分より大きくなってしまった息子を、それでも玄関の段差のお陰で目線少し見下ろして、微笑む。
 そして。
「行ってきます」
 言いながら、お母さんの顔と兄さんの顔が近付いて。兄さんの手は僕の頭に置かれたままで口唇で触れるだけのキスをする。
 それに合わせて、僕も。
「いってらっしゃい」
 言えば。
「行ってきます」
 屈んだ兄さんの口唇が近付いて、ちゅ、と軽く、触れた。
 毎朝の儀式が済むと、兄さんは傍らに置いた大きなスポーツバッグ片手に学校に向かう。その背中を僕は切ない気持ちで見送った。
 幼い頃から習慣になっている挨拶のキスに、特別な気持ちを抱き始めてしまったのはいつだっただろう。もう思い出せないくらい昔から。僕は兄と口唇を触れ合わせるたびに、何故かやたらとドキドキした。
 子供の頃に海外で暮らしていたらしいお母さんの影響で、僕の家ではいってらっしゃいといってきますのキスが普通だった。当然、僕とお母さんもするし、僕とお父さんもするし、兄さんとお父さんだってする。・・・最近は、仕事が忙しいらしく毎朝早くから仕事に出かけてしまうお父さんとは、あまりしていないけれど。
 だから、それは。
 別に意識することもなくて、それこそ生まれた時から繰り返されている家族としてのスキンシップ。そんなモノたいしたことないハズなのに。さっき兄さんのソレと触れ合わせたばかりの口唇が、なんだかジンジンする。
「薫、兄さん」
 俯いて呟けば、フローリングの床に吸い込まれて動けなくなる。
 兄さんに触れたい。もっとたくさん、触れたい。
 兄さんのことを考えただけで、ドキドキがどんどん早くなるから。僕は慌てて大きく深呼吸をした。
「葉末も早くご飯食べなさい」
 玄関先で呆けていると、キッチンから柔らかい声で呼ばれる。何も知らないお母さんは、僕がこんな気持ちを兄さんに持ってるなんて知ったら、きっと悲しむんだろうな。
「はぁい」
 僕は答えて、そっと溜息をついた。
 たとえば、それが。
 学校のクラスの女子に対する気持ちだったり。
 隣りの家のキレイなお姉さんに持つ気持ちだったり。
 そうすれば、きっとお母さんに言っても大丈夫なんだろうって思う。別に誰かに教えてもらったわけじゃないけど。でも、テレビで良く見るキスは、男子が女子にするものだから。
 なんとなく暗い気持ちで食卓についた。箸を握って、小さく「いただきます」と唱えれば。
「葉末は、いつまでたってもお兄ちゃん子ね」
 お母さんに、笑われた。
「どういうことですか?」
「あなたは、昔から薫の後ばっかりついて歩いて」
 何が楽しいのか、お母さんはクスクスと笑い続ける。
「今だって。薫が出かけた途端にそんなに落ち込んじゃって」
 笑顔のお母さんを見上げて。けれど思わず目をそらしてしまう。違う。僕の気持ちはそんな真っ直ぐなモノじゃなくて。
「でも、薫もあなたのこと可愛がってるものね」
 お母さんの掌が、箸を握り締めたままお茶碗を見詰める僕の頭を撫でる。
「今日は、早く帰ってきてくれるんですって」
 ほら、と手渡されたのはお母さんの携帯電話。メールの受信画面に、小さな文字が羅列している。そこには、さっきお母さんが告げた伝言と、薫、の文字。
「最近、練習が忙しいみたいで毎日遅かったから、あんまり遊んでもらえなかったものね」
 からかうみたいに言うお母さんの言葉に、思わず頬が熱くなる。
「そ、そんなことないです」
 まるで、寂しがってるのを見過ごされてるようで恥かしい。学校では、みんなに大人っぽいって言われてるのに。こんなのまるで子供みたいだ。
「よかったわね、今日はお兄ちゃんに宿題見てもらえるわね」
 ふふ、と笑ってお母さんは僕の向かいの椅子に座った。まだ手の中に握り締めたままの携帯電話は、バックライトが消えて暗くなってもまだ、薫兄さんからのメッセージをそこに映していた。
 一緒にいられない時間が寂しいけど。
 もっと触れたくて近くにいたくて、でもその気持ちは言えないけど。
 僕は兄さんの帰ってくる場所にいられるから。今は、それだけで。
 兄さん、とココロの中で呟いた。さっき触れた唇の感触が蘇る。
 大きく口を開けて、真っ白なご飯を一口、放り込んだ。











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