恋の領域、愛の行方 #1 |
太陽が惜しみなく降り注ぐ窓の外を恨めしげに見上げて、舌打ちをする人影を見つけて、小柄な少年が走り寄る。 「貞治王子っ」 背後から責めるような口調で呼ばれて、窓の外を眺めていた人影が振り返った。 乾貞治。長身に見合ったすらりと長い手足は滑稽なまでに豪華できらびやかな衣服でさえ、似合って見える。 この地を統べる王族、乾家の第1皇子として生まれた彼は、もうすぐ16歳を迎える。この地で、そして王家の一員として16歳を迎えるということは、同時に王位継承を約束することを意味する。 「うるさいな。そんなに大声を出さなくても聞こえるよ」 貞治は、声をかけてきた従者にうんざりした様子で答える。彼とて、王位を継ぐ事がどうしても嫌なワケではない。むしろ、その為に彼はこれまで学業に専念し、指導者たちも瞠目させる程の結果を出してきた。それだけでなく、武術も馬術もたしなみ、人並み以上の成果を出して。―――いずれは、この国を背負って歩くにふさわしい存在となる為に。 ただ、近頃は式典やら儀式やらの準備といった雑事が多いことが、彼の気持ちをイライラさせる。 そして。もう1つ、彼の心を近頃波立たせている事が。 「明日こそは、観月様のところのお嬢様とのお見合いを済ませてくださいね!」 この国の一番ばかげた風習だ、と貞治は思う。 16歳で、嫁取りをしろ、というのだ。 別にどうしても娶りたいほどの好きな女がいるわけではないけれど、見ず知らずのどこぞの姫様をいきなり奥方として迎える約束をしろ、なんて時代錯誤で無茶な話だ。とうてい納得も承伏もできないけれど、もう何百年と繰り返された風習を簡単に覆すこともできず。 それでも嫌な事には変わりなくて、駄々をこねるようにこうやって一日一日、ズルズルと引き延ばしている。 「・・・見合いと言ったって、実質は婚約の顔合わせだろう。ここで会ってしまったらもう後戻りできないじゃないか」 (会いました、駄目でした、じゃあこのお話はなかったことに、ってできるのなら俺だっていくらでも会ってやるんだけどね) 心でつぶやいて貞治は溜息を吐く。 「別に、一生奥方一筋で生きていけなんて事誰も言わないんですから。落ち着いたら外に女でもなんでも囲えばいいでしょ、いつまでもわがまま言わないでくださいよ」 「越前、オマエそれ本気で言ってる?」 貞治の周りにいる従者の中では珍しく年若い、越前と呼ばれた少年はさらりと言ってのける。 「常識です」 年が近い者も一人くらいそばにつけて置いて方が貞治の気も晴れるだろう、という両親の計らいか。越前リョーマが貞治のそばで働きだしてから1年になる。越前は、自分が年下な上身分も違う、ということを判っているのかいないのか、他の新入り従者とは違い物怖じせずに貞治に接した。それがかえって良かったのか、今では従者と王子の関係であるとは思えない程度には気心しれた気安い仲だ。 「だいたい、誰もあなたが一人の女で一生満足するなんて思ってませんって。相手のお姫様だってそれくらい判ってますよ。もうそろそろあきらめたらどうですか?」 「・・・今、何かすごく失礼な事を言われた気がするんだけど?」 お忍びで街に降りて、まぁいわゆるそういう遊びをしている事は、もちろん手引きをさせている越前にバレているのは判っていたけれど。 「ものすごい遊び人みたく言われるのは、心外だな」 「そうですか? 毎晩、人並み以上の容姿と育ちの良さを思わせる気品あふれる身のこなしを武器にして素性を隠してオンナ引っかけて遊んでる人の事、そう言いません?」 しれっとして言う越前の言葉はこの際聴き流して、貞治はその手から上着を受け取った。失礼極まりない越前の言葉を咎めるよりもまず、この場から逃げるほうが先だ。つい先ほど、明日の晩餐への出席――用は、そのなんちゃら姫・・・はじめ、とか言ったかな?との見合いだな――を見合わせる様、父上付きの秘書官に伝えたばかり。いつ父上が抗議に乗り込んでくるともわからない。ここはひとまず行方をくらますに限る。 「だいたい、何をそんなにいやがってるんですか?」 徹底していやがる貞治の様子を不審に思って、越前が問い掛ける。 「オマエにはまだ判らないよ」 貞治は投げやりに告げた。 いくら束縛されない、とは言っても。それでも一人の特定のオンナを作ることに変わりはない。そして、これからは今までやってきた自由恋愛がすべて「浮気」の一言になってしまう。 それはやっぱり、束縛されることになる、だろう。 しかも、好きでもなんでもないオンナに! そして。 貞治には、誰にも告げていないかすかな憧れのようなものを、結婚に対して抱いていた。 確かに、遊びで女と一夜を過ごすことも気をもたせるそぶりでウブそうな素人を騙すような事もまぁ、、、人並みにはしてきた。それでも所詮それは遊びでしかなくて。 (結婚てのは、そういうものとは別物だろ?) 貞治は、そう思っていた。 結婚は、この世に一人はいるとされる『理想の相手』とするものだ、と。 理想の相手、なんて。越前あたりには所詮はキレイゴトだの夢物語だの、笑われてしまいそうだから今まで誰にも話したことはないけれど。幼い頃、母親に繰り返し聞かされた。この世に一人、必ず自分にとって最良のパートナーとなる相手がいるのだ、と。そして、母にとってそれは現国王である父であり、そして、父にとっての母も同じである、と。 『だから、貞治も、大きくなったらそんな自分だけのお姫様を捜しなさい』 柔らかい微笑を浮かべてそう告げる母の顔を見つめながら、胸をときめかせた。まだ見ぬ未来の理想の姫君を想って。 その母の表情を思い出す度に、貞治の中に浮かぶ疑問。 もしも俺がここで早まってどこぞの姫と婚儀など交わしてしまったら。まだ見ぬ俺の理想の人は一体どうなってしまうんだ? 「とにかく、俺はまだ結婚なんてしないから」 その言葉を聞いて溜息をつく越前の様子に、貞治の気持ちのイライラがさらに色を募らせていく。 「出かける。馬を用意しろ」 「はいはい」 もう何を言っても無駄だと思ったのか、越前が大人しく他の従者にそれを伝えに行くのを見送って、貞治はまた窓の外を見やった。 森を越えて左手に広がる緑の丘が、とても気持ち良さそうに太陽の光を浴びて。貞治は、久しぶりに馬を思いっきり走らせてやろうと心に決めた。 *********************** 生い茂る枝葉の隙間から差す木漏れ日は暖かく、緑の香りは貞治の心に新鮮な空気を注ぐ。城にいる間のイライラをすべて忘れ去るように馬を走らせていくうちに、思考回路がニュートラルに戻っていく。 開放感。 一気に森を駆け抜けると目の前に突然開けた空間が現れる。城の窓から見えた緑の丘だ。 間近に見れば、色とりどりの小さな花が咲いていた。 貞治はゆったりと歩く速さにまでスピードを落として、久しぶりにふれる自然を満喫した。背後を振り返ると、貞治を追っていたはずの従者たちが追いついてくる気配はまったくない。 「うまく巻けたかな」 久しぶりに、一人きりになれた。 暖かな日差しを浴びながらのんびりと馬の背に揺られていると、大木の陰で横たわる人影が見えた。 そちらに近づいてもぴくりとも動かない。 「・・・死んでいるのか?」 少し心配になって、馬に乗ったままそろそろと近づいた。はっきりと顔を認識できる位置まできて、貞治は息を飲んだ。黄、オレンジ、そして白と言った清楚な色の花が咲き乱れる中に倒れたその人は、まるで花畑に埋葬された陶磁器の人形のごとくこの世のものとは思えない美しさを具現していた。さらさらと風にそよぐ髪はつややかな黒で、額にかかる前髪の隙間から覗く睫毛は長く、その顔に艶めいた陰影をつけ、小さく開いた少し厚めの口唇はほのかな朱に色づきなまめかしく。 ふわりと馬の背から降り立って、人影の傍らに膝をついた。 裾の広がったドレスから覗く足首は白く、腰は引き締まって細く。すらりと長い腕はきれいな曲線と直線で構成されている。 (・・・完璧だ) 貞治は、心でそうつぶやいた。 あまりにも、貞治の理想を具現化したような存在が、目の前に横たわっていた。あまりに運命的な出会い、偶然に見える事象がすべて必然に見えてくる。俺は、この人を見つける為に生きていたのかもしれない。それはココロの奥底で確信に変わる。 この姫こそ、ベストパートナーに違いない。 思わず触れた頬は暖かくそれが生きている人である事を裏付けさせ、またその感触はなめらかなで、貞治の指に離れがたい衝動を抱かせる。それでも、目を開けようとしないその人を。一瞬の逡巡ののち、抱き起こした。 片手を背に回し、もう一方の手で頭を支え抱きしめるように上半身を抱えると、ようやくその姿は身じろぐ。 二度、三度、その長い睫毛を震わせ瞬くと、自分の状態を確かめるように視線を上に上げた。自分を抱きしめて見下ろす貞治の存在を認めて、それでもまだ意識がはっきりと覚醒していないのか不思議そうに首を傾げた。 「お目覚めですか、姫?」 「あなたは、誰?」 その声は、少し低めで耳に心地よい。 「私は貞治と言います。今、ここを通りかかったらあなたが横たわっているのが見えたので」 笑顔と共に告げられた貞治の言葉を聞いて、姫は頬を赤く染め俯いた。 「あ、あの、ごめんなさい。お天気もよくてなんだか気持ちよかったから、つい・・・」 最後の方は消え入りそうな小さな声で恥ずかしそうに言う姫の顔をしっかりと見たくて、貞治は顎に手をかけて上向かせるとじっとその目を見つめた。黒に煌めく吸い込まれそうな深い瞳。 「おかげであなたに会えた」 「えっ・・・」 「あなたの、名前は?」 「薫と、言います・・・」 薫は、まるで催眠術にかかったように貞治の視線に絡まれて抗えない。抱きしめられたまま、その腕の中で。心の奥深くまでのぞき込んでくるような貞治の瞳をただ見つめ返すことしかできない。 「薫・・・いい名前ですね」 貞治は、その名を噛みしめるように囁いて薫の肩を抱いた手に力を入れた。ひとたび触れてしまったら、二度と手放したくない欲求が芽生える。生まれて、初めて。渇望した。 この存在が、欲しい。 遠くで馬の蹄の音が聞こえた。貞治が振り返って背後の森に視線を飛ばすと、木々の合間に馬の影が走るのが見える。・・・あいつらに真っ昼間からこんなトコ見られたらまた後からお小言大サービスだ。 貞治は咄嗟の判断で、それでもこの姫と別れがたくて。 「このまま連れて帰りたいと言ったら、あなはどうしますか?」 「え・・・えぇっ?!」 「時間がない、来てください」 貞治は、薫も半ば強引に立ち上がらせて、抱きしめる。立ち上がれば、その身長差は明白で。薫の滑らかな黒髪に指を絡めた。そして、薫が身動きを忘れている隙に貞治は薫を抱き上げた。 「うわぁ」 ・・・姫君にしてはいささか色気のない悲鳴ではあったが、肩に担ぐ為に触れた薫の体は綺麗についた筋肉の感触と、ほどよく丸みを帯びた柔らかなヒップライン。見れば見る程完璧だ。 貞治は、この素性もわからぬ姫を問答無用で城に連れ帰ることしか考えられなかった。焦っていた、と言ってもいいだろう。今、ここで。この手を捕まえておかなければ、もう二度と手に入れられない焦燥感。それが、いつもは冷静沈着な貞治に突飛な行動を起こさせた。 16を迎えたら。こんな風に自由に一人で出歩ける事もなくなってしまうだろうから。 しばしの逡巡の後。薫を横座りに馬の背に座らせ、自分もすぐさまその後ろに飛び乗る。 「うわ・・・高い・・・」 初めて見る馬の背中から見下ろす景色に思わず薫が声を上げると、貞治が守るように薫の背中を包む。 「怖い?」 「・・・少し」 「じゃあ、最初はゆっくり、ね」 貞治が引いた手綱を緩めて軽く馬の腹を蹴ると、馬は大人しく歩きだす。薫は、衝撃に驚いて貞治の腕をぐっと掴んでいたらしい。 「薫、腕じゃなくて、腰に掴まって」 「あ、はい・・・」 うなずいてから、自分のしようとした行動を客観的に考えて、薫は赤面した。 (腰に掴まるなんて、そんなのまるで自分から抱きついてるみたいじゃないか!) そう思って手を引っ込めようとした瞬間に、馬が歩を早める。 「わっ」 驚いて、つい、貞治の胸に飛び込むように抱きついてしまいさらに赤面する。触れた貞治の厚い胸板が、くすくすと笑っているのを伝える。あわてて離れようとした薫を、貞治はとどめるように抱きしめて耳元で囁いた。 「ちょっと飛ばすよ」 言うが早いか、さっきまではなでる程度にしか感じなかった風がぶつかるように頬に当たる。初めて感じる躍動感。思わず貞治の腰に回した手に力が入る。体にかかるスピードが、少しだけ、怖くて。そして、さっき触れた貞治の体温が、心地よくて。薫は目を閉じて、頭を貞治の胸に預ける。 とくとくと脈打つ心臓の音が、さわり心地のいい布越しに伝わってくる。 急な展開に驚いて麻痺した感覚は、まるで夢のようにしか薫には感じられなかった。 白馬に乗った王子様のような人に抱きしめられて、そして。自分はこれからどうなるのだろうとぼんやりと思う。 貞治は、腕の中で必死に自分に掴まる薫を見下ろし、理性とは別の部分の何かが確信を喚起する。いわば、それは未来永劫変わることなくあり続ける世の理を知る原子の教えのような。意識しようとすればかすんでしまう、深い場所に根付いた感触。 この存在を手放してはならない。 どれくらい、馬を走らせていたか。貞治に抱きしめられてなお、風にさらされることに慣れていない薫の体が少し冷えてきた頃。ようやく貞治は馬の足を緩めた。 それまで、振り落とされまいと必死で貞治にしがみつき、そして慣れない馬上の恐怖故にぎゅっと閉じていた目をあけた薫が見たものは。 向かったのは、森を抜けたその先。それは、これから始まる薫の受難のはじめの一歩でしかなかった。 |