Blindly Mind #1
手塚×海堂前提 忍足×海堂




 胸が、痛い。
 ジリジリと焦がれる、この気持ちは。
 あの人を見ているだけでどうにかなりそうなくらいの痛みに襲われる自分は、きっとどこかがオカシイんだ。
「どうした、海堂?」
 見下ろす怜悧な視線が、痛い。
「おい、海堂?」
 いぶかしげに問いかける低く心地よい声が、痛い。
「大丈夫か?」
 いつもと変わらない表情で、けれどほんの少しだけそこに俺を気遣う気持ちが浮かんで。薄いレンズの向こうの目が、俺を映しているのが、痛い。
 耐えられなくて、俺は。視線をそらすように俯いた。
「・・・大丈夫、ッス」
「しかし」
「平気っスから。ご心配かけて、すみません」
「・・・そうか」
 変わらない声音が、痛い。
 どうせたいして心配なんかしていないなら、煮え切らない俺にいらつく素振りを見せるとかすればいいのに。もっと冷たくされたら、俺だってもう少し割り切れる。それなのに。
「しばらく休んでいろ。先生には俺が伝えておく」
 ほら、今も。ふわり、と細くて長い指が俺の髪に絡む。なんで頭を撫でたりするんだ。
 中途半端に優しくされるから、気持ちがぶれる。
「・・・はい」
 俯いたままの俺に、小さくひとつ吐息をこぼして足音は遠ざかる。俺は一人、無機質な部室に残された。扉を開けて彼が出て行く瞬間、遠くに微か声援のようなざわめきが聞こえた。
 どうして俺はこんな暗い場所に一人でうずくまっているんだろう。
 俺は、部屋の隅に置かれたベンチに座りこむ。じっと、床を見つめれば。じわじわと浮かぶ涙に、自己嫌悪する。
「泣いてる、場合じゃねぇよ」
 泣いたってなにも変わりはしない。
 最初は俺を見てくれるだけでよかった。時折言葉を掛けられるだけで満ち足りた。
 それなのに、今。
 どれだけ深く触れられても。どんなに優しくされても。
 その後ろの、目に見える以上の感情が欲しくてイライラして。不安だけが募って、いたたまれなくなる。
 誰にでも公平なその視線は、俺にだけ特別なわけではないと認識するたびに悲しくなる。
「寂しいって思うのは、わがまま、なんだよな・・・」
 昨日抱かれたばっかりの体がうずいた。まだ、奥に熱が残ってるような気がする。激しく触れられたら触れられた分だけ、心の底が冷たくなっていく。繋がれば繋がった分だけ、心が見えなくなっていく。
「どうして・・・」
 求めたのは、俺だった。
 好きだ、と。生まれて初めて思ったから。
 テニスをしている時のキレイなフォームも。部員達を冷静に見つめて指導する時の声も。前だけを、上だけを見つめて立つその存在も。全てに、惹かれた。最初は、憧れだったのだと思う。
 あんな風になりたい、と思いながら毎日見つめて、見つめ続けて。
 気付けば、後戻りできないくらいに気持ちが高まっていた。けれど、そんなこと誰かに相談できるはずもなく。一人、煮詰まっていた頃。部活後に自主練習をするのを日課にしている俺が部室に戻ると、彼がまだ残っていた。
 それ自体は珍しいことではない。生徒会やら部長会やらでよく遅くなることがあった彼と、毎日一人で居残り練習している俺と。顔を合わせて挨拶をすることも、二言、三言、言葉を交わすこともあった。
 お互いに口数が少ないせいで、話し込んだ、というほど話したことはなかったけれど。もともとあまり人と話をしない俺にとっては、そんな些細なことでも特別だった。
 そして、小さな積み重ねが俺の中の気持ちをどんどん膨れ上がらせていって。
 蒸し暑い、夏のある日。
 この夏一番の暑さを記録したその日。夕方になって気温はだいぶ下がったものの、それでも肌に触れる風はまだ昼間の熱を残していて。気温を考慮せずにいつもどおりの練習をこなした俺は、少し体がふらつくような違和感を感じながら部室に戻った。
 その日も、彼が一人、そこにいた。お疲れ様です、と声をかければ。顔をあげて俺を見た彼の表情が、わずか、動いて。その表情に目をひかれて気がそがれた瞬間に、体が大きく、揺れた。
 視界が暗くなり、気が遠くなって目の前の机に手をかけたと思った瞬間に膝から力が抜けて崩れ落ちる。その浮遊感に身をまかせようとした瞬間に、細いながらも筋肉質な腕と胸に抱きとめられた。
 額には、包み込むような温かな感触。二度、三度。暗く沈みこみそうな錯覚の中、どうにか意識を保つために瞬きを繰り返せば、徐々に視界がクリアになっていき。
 目の前には、俺を見下ろす部長の顔。
 初めて間近で見たその表情に魅入られて、俺はまるでねだるように彼の制服の胸元をきゅっと掴んで見上げることしかできず。
 どうして、あんなことができたのだろう、と。今となっては何もわからない。
 暑さのせいでおかしくなっていたのだろうか。朦朧とする意識の中、伸ばした腕で抱きついて。
 キスをした。
 そして。どうして彼はあの時俺を止めなかったのだろう。
 はっきりとした言葉なんて、なかった。触れた唇が離れれば、また口付けて。徐々に深まるキスに、彼の手が俺の体に伸びて。暑さと、泥臭さと、汗の匂いと、夕暮れ。凝縮したような夏の濃さのまま、俺達は抱き合った。
 その時、彼の中にどんな感情が生まれたのかは、相変わらず判らないまま。俺と、彼は。それ以来、体を繋ぐようになった。
 抱かれるたびに俺の中には彼への気持ちが募っていく。どんどん、体も心もオンナにされてくみたいにもろくなって。彼がいない生活なんて、耐えられないとまで思ってしまう。
 それなのに。
「あの人にとって、俺は」
 一体どんな存在なのか。
 いつも変わらない表情の向こう側が、いつまで経っても見えないまま。
「手塚部長・・・」
 とうとうこぼれた涙が一粒、ぽとり、と床を濡らした。







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 部活を終えて、疲れた重たい体をひきずるようにのろのろと家への薄暗い道をたどる。昨夜の行為がまだ響いているせいで今日はさすがに自主練を諦めて帰る途中、自転車に乗った桃城と、その後ろに乗った越前が俺の横を追い越していった。その後姿を見送って、俺はまた俯いてしまう。
 セックスしすぎて部活がおろそかになるなんて、ほんとにどうかしている。
 重たい鞄によろける体で歩いていると。
 前方にちらりと見えた、見覚えのある人影―――手塚部長?
 そう思った瞬間に、彼は振り返って。
「あ、薫ちゃん、今日は早かったんやなぁ」
 よく見れば、氷帝学園の制服だ。・・・にもかかわらず手塚部長と見間違えるなんて。だいたい手塚部長は、俺が部室を出る時にはまだ部室にいたじゃないか。何やってんだよ、俺は。
「忍足さん。こんなとこで何してンすか」
「そんなん薫ちゃんに会いに来たに決まってるやん」
 にこにこと笑いながら近づいてくる彼は、俺の目の前で立ち止まって。
「なんや、えらい疲れた顔して?」
 顔を覗き込まれた。
「まぁた、あのむっつり部長になんかされたんか?」
「・・・手塚部長のことを悪く言うんじゃねぇ」
 にやにや笑いながら言う忍足さんを睨めば。
「はいはい、あんな鉄仮面のむっつりでも薫ちゃんの大好きなだぁりんやもんなぁ」
 まったく持って相手にするつもりもないらしく、笑ったままの顔で俺の髪をくしゃりと掻き混ぜる。そのまま、その手がすっと落ちて。頬に添えられて、顔を上向けられた。
「なぁ、まだ俺のこと侑士って、呼ばんの?」
「あ・・・」
 その目に浮かんだ色は。優しくて、けれど、寂しそうで。何も言えなくなる。
「ま、えぇねんけどな。ゆっくりで」
「・・・すみません」
「あぁ、あやまらんくていいって。俺が勝手に言うとるだけやし」
 都大会で初めて逢った氷帝の天才、忍足侑士は、何を間違ったのか乾センパイとダブルスで試合に出ていた俺を気に入ったらしく。
 試合の翌週、校門を出ると彼が俺を待っていた。断りきれずに誘われるまま家まで送ると言われて二人肩を並べて歩く帰り道。好きだ、と告白された。
 けれど、俺と付き合ってほしいなんて突然そんなことを言われても困るだろうから、と。お試し期間のつもりで、たまに遊んだりしよう。そう言われて。断ったつもり・・・だったんだが、何故か、ことあるごとにこうして俺に逢いに来る忍足さんの存在が、徐々に自分の中で大きくなっていくのに、戸惑う。
 俺が手塚部長が好きなことを、知っていてなお。
 彼は俺に逢いに来る。
「自分、ほんましんどそうやで? 家まで送ったるワ」
 言いながら、肩を抱かれた。触れられた部分がやたら暖かくて、思わず俺は俯く。
 手塚部長を好きだと思いながら俺を好きだと言う忍足さんにこんな風に優しくされて、どうしたらいいか判らないままに、促されて歩き出した。
 こうして忍足さんの隣りを歩くのは、俺ではなくて氷帝学園の制服を着た女の子であるべきなんじゃないだろうか。いつも胸に浮かぶ疑問に、視線はつい忍足さんに向いて。
「荷物、もったろか?」
 ちらりと見たら、忍足さんと目が合った。
「・・・平気っす」
「そうか」
 ポンポンと、軽く俺の肩を叩きながら歩くペースは、普段より少し遅くて俺のことを気遣ってくれているのだとわかる。
「・・・忍足、さん」
「なんや?」
「なんで、俺なんスか」
 なんで、俺みたいなヤツのこと、好きなんて言うんだ。そんな気持ちで見上げた忍足さんの顔は、どこか思案げで。
「・・・じゃあ、さ。薫ちゃんは、なんで俺やないん?」
 振り仰ぐように頭上に飛ばされた視線が降りて、じっと見つめていた俺の視線とぶつかって思わずこぼした問いかけは、自らに返されてようやく聞いても仕方ないことだったのだと気付く。
「・・・ごめんなさい」
「薫ちゃんはな、いちいち考えすぎやねん。もうちょい気ぃラクにしたらえぇやん?」
 忍足さんの言葉はすごく、優しくて。優しすぎて、俺は俯くことしかできない。何も返せないのに、こうして甘えるばっかりで。
「俺のことなんか、適当に利用したったらえぇねんで? 気晴らしに遊びに呼び出すとか、テニスの練習付き合わせるとか。そうや、今度一緒にテニス、しに行こか? 俺かて、一応氷帝テニス部のレギュラーやったんやし、練習相手には不足せんと思うんやけど?」
「でも」
「な、そやそや。そうしよ。今度の土曜日は、部活何時まで?」
「多分・・・3時くらいまでです」
「ほな、5時頃迎えにくるワ。そんで、いつものストテニ場、行かへん?」
 このあたりの学生がよく行くストリートテニス場。忍足さんと一緒に行ったことはないけれど、俺も先輩や桃城に誘われて何度か行ったことがある。そこで、氷帝の人達と来ている忍足さんと偶然逢ったコトも、何度かある。
 ・・・手塚部長と一緒に行ったことは、ないけれど。
「嫌やったら、断ればええんやで?」
 黙りこんでしまった俺に、忍足さんの助け舟。うまく言葉が出ない俺を気遣ってくれるその気持ちが、今の俺には暖か過ぎて手放すことができなかった。
「嫌、じゃないッス」
 先の見えないままの暗く沈んだ思いは、消えないけれど。こうして話してる間も手塚部長のことを思い出している俺に、忍足さんの時間を独占する資格はないと思うけれど。
「ほんなら、土曜日の5時、な」
「はい」
 忍足さんが俺のためにこうして時間を使ってくれるのは、申し訳ない気持ちと同時に嬉しくもあって。そんな俺は欲張りなんだろうか。
 手塚部長よりも少しだけ柔らかなラインの眼鏡の向こう側の目が、俺を見下ろしている。俺は、それが何故か恥かしくて俯く。
 気付けば、すぐそこを曲がれば俺の家が見える、という角まで来ていて。
「ほな、気ぃつけて帰りや。・・・土曜日、楽しみにしとるで?」
 いつもの、別れ道。
 あと少しで俺の家。けれど、忍足さんはそこまでは来ずに少し手前のここで、いつも俺と別れる。それは多分、忍足さんなりのケジメ、みたいなものなんだと思う。俺のコトをものすごく考えてくれているってのが伝わるから、そしてそんな気遣いも嬉しいと思ってしまう自分がいるから、忍足さんの気持ちを知っているのに俺は彼を拒めない。
 それどころか。
 どうして俺は、忍足さんのことが好きじゃないんだろう・・・。
 さっき言われた言葉が、脳裏に浮かんで。無意識に、じっと忍足さんを見詰めてしまっていた、らしい。
「薫ちゃん? どしたん?」
「あ。え、と。なんでもない、デス」
「そんなん見つめられたら、誤解するやん」
 照れて俯いた俺を、忍足さんはぎゅっと抱き締めてから。
「あんまり、自分に惚れとるオトコをその気にさせたらいかんで?」
 にやりと人の悪そうな笑顔で顔を覗き込んでから、体を離した。
「あ、あの」
「ん?」
「ありがとう、ゴザイマシタ」
「え? 何が?」
「その、送って・・・もらっちまったし」
 逢いに来てくれて、とは言えない。
「あぁ、そんなのえぇねん。気にせんとって。ほな、また土曜日な」
「・・・ハイ」
 最後にもう一度、くしゃり、と髪を撫でられて。いつからこんな風に当たり前に忍足さんに触られるようになってしまったのか、と今更ながらに思う。
 気付けば、いつも近くに。
 俺は、どうしてこの手を撥ね退けられないんだろう。
 顔を上げれば、忍足さんは手を振って見せて来た道を戻っていく。その背中を見送りながら、俺は途方にくれた。
 忍足さんの背中が、さっき曲がってきたばかりの角の向こうに、消える。抱きしめられた肩が、まだうっすらと忍足さんの体温を残してるみたいで。
 体の奥にはまだ、手塚部長の感触があるのに。手塚部長のコトが好きなのに、忍足さんの温もりまでもが嬉しいと思う俺はきっと駄目な人間なんだ。そう思ったら急に悲しくなって、その場にうずくまった。
「もう、嫌だ」
 俺は、一体、どうしたいんだろう。
 ズキズキ痛むこめかみは、多分さっき部室で少し泣いてしまった所為。その中途半端な頭痛を感じながら、あぁ、この中途半端さが俺の気持ちそのものなんだと気付く。
 本当はもっと泣いてこんな感情自体を曖昧にして忘れてしまいたかったのに、けれど涙はもうこぼれなかった。











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