NO MORE TO SAY  #2




 狭い楽屋の中は、ライヴ後の熱気に溢れ、人が入り乱れている。ステージ上でローディーが器材を片づけ始めた頃、本日の主役であった四人が、慌ただしい楽屋へ戻ってくる。
「おっ疲れさ〜ん」
 ドアを開けるなり大きな声でスタッフに挨拶してまわるのは、ムードメーカー的存在の聖。楽屋を訪れていた関係者との挨拶を慌ただしく済ませ、各自身支度を整えにかかる。
 いち早く汗に濡れた衣装を脱ぎ捨てた聖が、クレンジングを染み込ませたコットンを片手に、口唇に塗られた赤色を落しつつ、ぼやく。
「なんやなぁ、最近の化粧品は落ちにくくてかなわんわ。ライヴ中に剥がれんのはええけど、なんでこないとれんねん。なぁ、ユミちゃん」
 同意を求められた弓生は、自分の化粧を取る手を止めようともせず、ちらっと視線を聖に投げかけて、応える。
「マックスファクターは特別だ。それが嫌ならマリークアントにでもすればいいだろう。落ちにくいのが嫌なくせに、それを使っているお前が悪い」
 さらっと反論されて、聖はぷっと膨れながら言い募る。
「せやけど、マックスファクターのこの色がええんやん。ユミちゃんかて、これが俺に似合うって言うたやないか」
 その聖の言葉に対して、弓生は何も答えなかった。微かに溜め息を吐いて自分の作業に集中しようとした時、視界の隅で捉えた聖は、何故か、迷子の子供のような悲しそうな表情を浮かべていた。
 けれどそれはほんの一瞬の出来事。弓生が慌てて視線を戻すと、そこにはいつも通りの呑気な顔で、鏡に向かって相変わらずごしごしと口唇を拭いている聖がいるだけだった。
 力任せにごしごしと口唇を擦る聖を見かねたのか、もうほとんど素顔に戻った成樹が、自分の手元に置いてあったクレンジング剤を聖に手渡す。
「聖、そんなに強く擦ったら口唇荒れるって。これ使ってみなよ。やっぱりクレンジングはポンズが一番。聖が使ってるのよりはいいと思うよ」
「おっ、成樹、おおきに。やっぱ、安いやつはあかんなぁ」
 冷静に状況を見ていた三吾は、内心(おや?)と思う。何処か、いつもには見られない含みのあるような雰囲気の聖。そして、必要以上に聖を気に掛けている弓生。本人達さえ気付いていない微妙な心の変化を、三吾は空気から感じ取っていた。けれど、それが具体的に何を示しているか、までは分からない。
 三吾はラッキーストライクのパッケージに手を伸ばし、一本を銜え、火を点けた。じりじりと燃える煙草の先端から立ち上る紫煙を見つめ、考え込む。
(あの二人の雰囲気、おかしくないか?聖と弓生が喧嘩ってなると穏やかじゃねぇな…。そういやぁ今日のライヴ中も、いつもより聖の表情固かったな。そんなに気にはならなかったけど、声の伸びも多少悪かったかな…)
 じっと黙り込んだ三吾を不審に思った成樹が、聖に告げる。
「ねぇねぇ、三吾がトリップしてるよ、ヤバイよ、またなんか怪しげな薬でもファンの子にもらったんじゃないの?」
 その唐突な発言に、三吾が苦笑しながら言い繕う。
「またってそんなもんもらったのは一回だけだし、大体あの薬は合法なもんだぞ。俺はただヴィジュアルメンバーは大変だと思って見てただけ」
 いかにも自分は無関係、というなげやりな言い方に、聖が憤慨する。
「そうやっ、俺らは大変なんやっ。三吾一人だけ、スッピンでステージに立ちおって、楽しとる。お前も少しは俺らの苦労をねぎらわんかい!」
「そうだよ、あんた一人だけ化粧してないのは、おかしいんじゃない、弓生だってしてるんだし不公平だよ。一度は俺達の苦労を味わうべきだ!」
 聖と成樹の二人に同時に責められても、全く意に介していないのか、三吾は飄々と言い返す。
「お前らが勝手に化粧してんだろう。だったら、俺が化粧しないのも俺の勝手だね。文句いわれる筋合いじゃあねぇ」
 ほとんど日常化しつつある言い合いが、更に続きそうな気配を見せ始めた時、弓生が呆れたように、冷たい声音で言い放った。
「まったく、騒々しい事この上ないな。無駄口を叩く暇があったら、さっさと片づけを済ませろ」
 権力者的風格で弓生が一喝すると、一同はしゅんと静まり返る。この三人がじゃれあう様に口喧嘩しているのは、今に始まった事ではないし、弓生も承知している。仲が悪い訳ではない。仲が良すぎるが故に、また、口が悪い人間が揃っている事が最大の悪因となっているのだろう。そして、そんな連中を戒めるのが、ごく自然と最年長である弓生の役目となっていた。
 ささやかなスキンシップ的口論も一息ついた頃、まるでタイミングを見計らったかのように、ばたんっと乱暴に楽屋の扉が開き、小柄な少女が入ってくる。コケティッシュな雰囲気の彼女は、バンドが活動し始めの頃から、スタッフとして手伝ってくれている秋川佐穂子だ。
「物販終わりましたぁー」
 手には、バンドのデモテープやグッズの入った箱を抱えている。
「おー、佐穂子、お疲れさん。今日はどうやった?」
 聖は、ライヴ後、物販をしていた彼女に労いの言葉を掛けて尋ねる。
「ライヴはまぁまぁの出来なんじゃない?お客さんも結構盛り上がってたし。今日は最前凄かったよ。後ろから観てると、見渡せるじゃない、三吾の前にいた子達なんか、特に。あんまりあんたが煽るから…。終わった後ふらふらしてて、心配になったくらい」
 それを聞いて、いち早く帰り支度を済ませた三吾が、一人簡易椅子で寛ぎ、くわえ煙草でにやにや笑う。
「そりゃあそうだろう。あんだけ頭振ってりゃあ、しばらく首座んねぇよ」
 自分の首に手をやり、軽くマッサージしながら更に言い募る。
「俺だって結構無茶してんだから。ファンが俺に応えるのは当然だ」
 その偉そうな口調に呆れたように、佐穂子は言い返す。
「でも、程々にしといてよね。ファンの子倒れちゃったら、ほっとく訳にもいかないんだし」
「そうそう、いくらなんでもやりすぎだよ」
 佐穂子の言葉に成樹も同意する。けれど、三吾がそれごときで言い含められる訳もなく。
「あぁ?ライヴってぇのは盛り上がってなんぼのもんだろう。それを大人しくしててどうすんだよ。それは俺様に頭振んなって言ってるようなもんだぞ」
「だからっ。限度をわきまえてって言ってるんじゃない。自分だってかなりキてんじゃないの、その首。いっつもマッサージしてあげてるのは誰だっけぇ?」
「佐穂子さん、もっと言ってやって下さいよぉ。さっきだって…」
「うるせぇ、成樹、お前は黙ってろっ」
 いつもなら、率先して参加しそうな軽口の叩き合いに、何故か聖が参加していない。弓生は訝しげに眉を潜める。一人で黙々と後片付けをしているなど、およそ聖らしくない。
「それより、今日はどれくらい売れたんだ?」
 それでも、内心の困惑はよそに、責任者的立場の弓生は、三吾と佐穂子の会話を事務的な質問で遮る。
「えっとねぇ…。テープ六十本と写真三十セットってとこかな」
 佐穂子は慌てて弓生に答える。佐穂子も、金銭的管理などの事務的な仕事の全てを取り仕切っている弓生には、逆らえない。弓生は、バンド内での影の実力者なのだ。
「まぁ、今日の客の入りなら、その位が妥当だろう。また後で、正確な本数は調べておくから、全部車に積んでおいてくれ」
「オッケー、あと、今日は打ち上げどうすんの?」
 佐穂子は出口に向かいながら、弓生に尋ねる。
「折角のワンマンだし、ファンの子も期待して待ってるんじゃない?いつもの所の二階なら、多少人が多くても多分大丈夫だし」
 ライヴ後に行われる、恒例のお食事会の事だ。
「じゃあ、何人くらい参加するのか、確認してこいよ」
 三吾の言葉に、了解、と頷いて佐穂子は楽屋を颯爽と出て行く。それを見送りながら、着々と片付けを進める中で、ただ一人、聖だけがどこか憂いた表情を浮かべていた。





+





「ほな、皆さんお疲れさんでしたぁ」
 聖が立ち上がり、ビールの入ったグラスを掲げる。居酒屋のお座敷を陣取った面々が、至る所で「かんぱぁい」の明るい掛け声と共に酒宴が始まる。
「ユミちゃんもお疲れさん」
 座り直した聖が、横にいる弓生にグラスを向ける。
「あぁ、お疲れ」
 カチンとグラスのぶつかる音がする。これから車を運転せねばならない弓生のグラスの中身は、烏龍茶ではあるが。
 佐穂子は相変わらず忙しそうに動いている。三吾はファンの子に混ざって団欒している。成樹は…電話中。彩乃にでも掛けているのだろう。座敷の隅の方で、何やら楽しげに笑みを浮かべて話している。
「なんや、ユミちゃん、今日も飲まれへんの?」
 弓生のグラスの中身を見て、聖が不服そうに問う。
「俺まで飲んだら、帰りはどうするつもりだ。成樹と佐穂子は免許を持ってない上に、三吾が飲んだくれるのは確実だろう」
「そんなん、ええやん。俺かておるんやし」
「お前の運転など、もっての外だ。素面の時でさえ空恐ろしいのに、飲酒運転などさせられるか」
「でも、たまにはユミちゃんも一緒に騒ぎたいやん。いっつも一人で落ちついとったらつまらんやんか」
「今に始まったことではないだろう」
 弓生は、聖の戯言を軽くあしらって、出された料理に箸を伸ばす。隣では聖がむぅっと膨れっ面で、弓生の横顔を睨み付けている。
 今日の聖は、何故か弓生の冷たい態度が気に入らない。いつも通り、と言えなくもない弓生のあしらい方が、気に障るのだ。
 弓生に誘われて、一緒にバンドを始めた。今では弓生の隣で唄うことが当然のように、馴染んでいる。彼の醸し出す音も、彼が創る世界観も、奏でる楽曲も、聖にとってなくてはならない物になっている。そして、バンド活動をするに当たっても、何かと都合がいいという事で、弓生と聖は一つ屋根の下に暮らしている。
 一切家事をしない弓生と家事全般を難無くこなす聖は、これまで順調に同居生活を続けていた。バンドの方も順風満帆とはいかないまでも、着実に動員数は伸びているし、今日も初ワンマンライヴを見事成功させている。メンバー間の関係も、良好だ。とりたてて大きな悩みなど無いはずなのに…。
 弓生はいぶかしんでいた。お祭り騒ぎが大好きな聖のこと、いつもなら三吾とつるんでばか騒ぎを始めてもおかしくない状況である。なのに、先刻まで何やかやと弓生に絡んでいた。そうかと思えば、隣で大人しくちびちびとビールに口をつけている。聖らしくない。
「どうかしたのか?」
 問われた聖は、ん〜?と曖昧な返事を寄越して、不安げな眼で弓生を見上げる。
 聖は考えていた。
 自分は弓生のことが気になって仕方が無い。理由なんてどうでもいい。ただ、弓生にかまって欲しくて、冷たくされると寂しいのだ。こんな風に感じたのは初めてだった。今までと同じはずの弓生の態度が、物足りない。
 今日のライヴ中に感じた不満と同じだ。遠くしか見詰めていない弓生の視線を、どうしても自分に向けさせたくて、いつもより執拗に弓生に絡んだ。それでも弓生は、普段の弓生のままで…。
(ユミちゃんは俺のことなんてどうでもいいんやろうか。こんなん思ってんのは俺だけなんかなぁ)
 聖は、いじけた子供のように、膝を抱え込んで、上目使いに声を掛けてきた弓生を見上げた。
「なぁ、ユミちゃん…」
 一人で悶々と悩むのは聖の性に合わない。それに、悩みの種である張本人が、隣に居るのだ。疑問を素直に弓生に問い掛けてみようとしたその時、隣のテーブルで嬌声があがる。三吾が一気でもしたらしい。
「どうした?」
 聖は、まだ打ち上げの最中であることを思い出し、口を噤む。
(ここで話すべきやないんかもしれへん…な)
 そう思い直して。
「あ〜、後で話すわ」
 言い置いて、席を立った。弓生は聖の背中を見やる。
 天真爛漫で、めったに悩むことなどない聖が、いつになくふさぎ込んでいる。それくらいのことは、弓生にも分かっていた。仮にも一緒に暮らしているのだ。
 そして、聖が自分に向けた視線――瞳の奥に、見たことの無い何かが浮かんでいた。それはまるで、恋焦がれているような…。
 弓生は感じていた。自分が聖に惹かれ始めているのを。
 共に過ごす時間が増えれば増えるほど、聖を知れば知るほど、心を捕われていく感覚に陥る。
 それは、ある種の情欲であり、同性に対して抱くには、少し不自然な感情。
 そんな感情を聖に見せる訳にはいかない、と弓生は思っていた。受け入れられるはずも無い、知られてはならない事だ、と。
 けれど、先刻から聖が見せる表情に、内心途惑っていた。
 まるで、自分を求めているような、そんな、熱のこもった視線を自分に向けてくる。
(聖は…)
 どうして欲しいと言うのか。
 ざわめきの続く室内で、弓生は考え込む。大切に思えばこそ、抱いてはならない想いだと、心にしまい込んだ感情だというのに。奥深くに燻り続けていた、何かが揺らめく。
 少し離れた席で、三吾と一緒に大騒ぎをしている聖を見やる。その笑顔からは、もう欠片の弱さも見つけられない。
 弓生は自嘲めいた笑みを浮かべる。
(全てが思い違いか…単なる自分の願望か)



「弓生、そろそろ時間なんだけど…どうする?」
 佐穂子に問われた弓生は、ちらと手首に視線を落とす。時計は既に午前一時を差している。
「そうだな、とりあえずここは出ないとまずいだろう。まぁ、今日は久しぶりのライヴで皆疲れているだろうから、これで解散にするか」
 弓生は立ち上がり、相変わらずのテンションで、ファンの子に囲まれながら盛り上がっている聖と三吾の方に顔を向ける。声を掛けようと、そちらの方に歩いて行きかけて、立ち止まった。
(まただ…)
 弓生を見た瞬間、浮かべた泣きそうな表情。
 ほんの一瞬、聖の眸の奥に過った翳りが、弓生の視線を奪う。―――刹那。次の瞬間には、もういつもの笑顔に戻っている。
 弓生は溜め息を一つ吐いて、出口に向かった。











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