NO MORE TO SAY  #3




 外に出ると、音も無く霧雨が降っていた。
 なんだか気に障る、人を不快にさせる細かい水滴は、容赦なく弓生をじわじわと濡らしていく。
 雫を刷いた眼鏡を煩わしそうに外して、路上駐車させている機材車に早歩きで向かう。
 弓生は、店の外で待っていたファンの子の「お疲れ様です」の声に軽く会釈を返して、そそくさと車に乗り込む。もうほとんど指定席と化している運転席に落ち着き、雨に微かに濡れた眼鏡を拭いて掛け直す。外に目を向けた。三吾と聖が店から出てくる雰囲気は、まだない。成樹はもう既にシャッターの閉じられた隣の店の軒先で、ファンの子に捕まっている。
 聖は、いつもの歯切れよさをなくした様子で、出入り口付近でまごまごしている。
「なぁ、三吾」
 聖が心なしか声を潜めて、さっさと店から出ていく三吾を呼び止めた。
「あぁ?」
 煙草を咥え、火をつけようとしていた三吾は、一瞬だけ聖に視線を向けて、またすぐに手元に戻す。
「ユミちゃん、なんや冷たないか?」
 聖が唐突に尋ねた。
「冷たいって…そんなのいつもの事だろう。何を今更文句言ってんだよ」
 三吾は、聖の真意を諮りかねて、言い返した。
「う〜ん、そうやねんけどな、いつもとはちいっと違うような気がするねん」
「そうか?」
「俺の気にし過ぎやろか…。ユミちゃん、俺の事避けてるんとちゃうやろか?」
 聖がぼそっと呟いた。
「はぁ?避けるって…お前ら喧嘩でもしたのかよ」
 つい三吾は立ち止まって言い返した。
 思い当たったのは楽屋でのワンシーン。聖の寂しげな聖の表情とそんな聖に向けられた弓生の視線。
 しかし、聖は即座に否定する。
「あほかい、俺らが喧嘩なんかするかいな。せやけどな、なんかユミちゃん、笑うてくれんねん。俺はユミちゃんと一緒におれれば、嬉しゅうてしゃあないし、ユミちゃんの事好きやから俺の事見て欲しいと思うやん。せやのに、ライヴ中かてそうや、ユミちゃんほんのちょこっとしか、俺の事見てくれへん。なんか俺、ユミちゃんの気に障るような事したんやろうか」
 そう一息にまくしたてて、心底不安そうな表情をして、三吾を見つめた。
 三吾も流石にうろたえた。
 好きだから見て欲しいだの、一緒にいられて嬉しいだのという感情は、俗に言う恋≠ナはないのだろうか…。
 しかも今のはほとんど告白に近いセリフなのではないか。
 いや、一際強い友情と取れなくもない、しかし…。
「ひ、聖、ちょっと待て。お前…弓生が好きって事は、その…そういう意味なんだな?」
 三吾が確認する。
「好きにそういうもこういうもあるかいな」
 さも当然というように、言い返す聖。
 ちょうどその時後ろから、「お話しは外で…」と、店員から声が掛かった。
 三吾が、すみません、と誤って、聖を促す。
 内心溜め息を吐きつつ。
(今日の聖の調子が悪かった原因ってのが弓生で、それがまさか…ねぇ)
「そういう事は俺に言っても仕方ないだろう?直接弓生に言え、弓生に」
 三吾は聖の肩をばしっと叩いて、半ば呆れた調子で言い放った。





+





 店の外に出ると、雨降りにもかかわらず待っていたファンが、わらわらと寄ってくる。
 声を掛ける一人一人と軽く談笑しながら、聖は車を見やった。
 弓生が運転席で眸を閉じてじっと座っている。成樹がようやくファンの子から解放されたらしく、車の後部座席に乗り込んでいるのが見える。
 聖は、サインを頼まれた手帳にさらさらと書き込みながら、黙り込んでいた。いつもなら何やかやとおしゃべりしながら、ファンの子に対応する聖にしては珍しい。サインに名前を入れる段階になって、やっと声を掛けた。
「えっと、名前は…?」
「綾子です」
 と答えたファンも、今日の聖の様子には、何処かいつもと違うと感じていたらしい。
「あの…聖さん、今日はどうかされてたんですか?ライヴ中もなんだかいつもよりも元気がないっていうか。機嫌悪いのかなぁってちょっと心配やったんですけど」
 少し不安げに問われ、聖はいつもの明るい笑顔で答える。
「いや、そんな事ないで?そっか、今日調子悪そうやったんや…。ライヴもあんま良くなかったって事やろか?」
 そう問い返す聖に、あわててかぶりを振る。
「いえ、ライヴは凄く楽しかったんですけど、いつもと比べると歌に迫力なかったかな…って感じたんですけど。身体の具合とか悪いのかなぁと思って」
 その鋭い洞察力に、聖は内心苦笑する。
(ファンの子でも気づいてくれる事を、ユミちゃんは気いついてくれへんのやろな…)
 心が寒くなるのを感じつつも、そんな心配をしてくれたファンには明るく微笑み返して。
「心配してくれてありがとう、な。でもそんなん全然大丈夫やから。またライヴ見に来てやぁ」
 そう言って、サインをし終えた手帳を返す。「ありがとうございました、次のライヴも頑張って下さい」と告げて、お辞儀をして踵を帰したその子を見送って、弓生の待つ機材車に向かう。
 しかし、何かと思い通りにいかないのがファンの行動だ。一人のファンが声を掛ければ、後から続けて声を掛けられる。その一人一人に対して、失礼にならない程度に、けれど普段よりも素っ気無い態度で対応しながら、写真を撮られたりサインをしたり、プレゼントをもらったり、少しお話ししたり、と慌ただしい時を過ごした。
 聖は一刻も早く弓生と二人になりたいのに、そう出来ない状況に苛立ち、気持ちばかりが焦る。それでもお客様であるファンを邪険に扱う事は、聖の性格上出来ない。
 聖がそんなジレンマを感じている事を、自分もようやくファンから解放された三吾が気づいて、自分も機材車に急いだ。車内で成樹と談笑していた佐穂子を呼ぶ。
「おい、佐穂子、ちょっと聖助けて来いよ」
「助けてこいって…いつも、しばらくはあぁじゃん、ほっとけばそのうちくるでしょ」
 三吾の不躾な物言いに、佐穂子が言い返す。が、三吾としても、聖を見捨てるような真似は心情的に出来ない。どう贔屓目に見ても、今日の聖の様子はおかしい。そして、その原因は先刻の聖の言葉だ。
 三吾にしてみれば、結果がどうなるか、はともかく、これ以上聖の気恥ずかしい恋愛騒動に付き合わされるのは気が進まない。バンドの為にも、そして三吾自身の精神衛生上においても、早いうちに当人同士で片づけてしまってほしい、というのが本音だ。かと言って、ここで聖の心境を暴露する訳にもいかない。全てを悟ってしまった三吾は、内心溜め息を吐きながら佐穂子に言い募った。
「ったく、ほっといたらいつになるかわかんねぇじゃん。成樹だってあんまり遅くなり過ぎるとまずいだろう?それに俺も今日は久々のライヴで疲れたんだよ、早く帰りてぇの。だから聖呼んでこいって」
「そんなの自分で言えばいいじゃない。なんでそんな事まで私がやってあげなきゃなんないのよ」
 そう言いつつも、佐穂子は悪態を吐く三吾を一睨みし、車から降りて聖の元へ向かった。
 三吾は、その後ろ姿によろしく〜と明るい声を掛けて、自分もそそくさと車に乗り込んだ。ごちゃごちゃと置かれた荷物を除けて、シートに落ち着くと、成樹が訝しげに問い掛ける。
「ねぇ、俺、別に遅くなっても構わないんだけどな。聖、どうかしたの?」
 成樹は、流石に三吾の様に二人の間に流れる空気が変わったとは気付いていなかったが、それでも「聖」と名指しで聞く辺り、何か引っ掛かるモノがあるらしい。最後部座席から身を乗り出して、三吾の顔を覗き込む。
 三吾も、運転席で黙り込んでいる弓生の存在がある以上、先刻の聖の言葉を成樹に伝える訳にはいかない。色恋沙汰に第三者が関わると、物事が面倒になる可能性が高い。ここは当人同士にまかせるべきだ、と判断して曖昧に微笑み返した。
「若さ溢れる十代とは違って、二十代になると心身ともに衰えてくるもんなんだよ」
 なんだか親父臭いなぁとぼやきつつも納得したのか、成樹もそれ以上は聞かなかった。

 弓生は、表情は崩さずに車のエンジンを掛けた。心持ちきつめに噴かされたアクセル音が、深夜を過ぎた人通りの途絶えた道路に響く。その音が、聖を呼びに行ったはずの佐穂子を交えて、なかなか切り上げられなかったファンとの談笑を途切れさせ、聖を振り返らせた。
 それまで何となくきっかけが見つけられずに、ファンの子との会話を中断できずにいた聖は、機材車に視線を流して、取り囲むようにしていた女の子達に笑顔を向けた。
「なんやユミちゃん待っとるみたいやし。今日はこの辺でお疲れさんって事にしよか。次のライヴも見に来てや〜」
 そう告げて、取り巻きに向かってひらひらと手を振り、小走りで機材車に向かう。
 小雨は相も変わらず降り続いて、聖の柔らかな髪を微かに湿らせていた。車に駆け寄りさっと助手席に乗り込んだ聖の顔は、まだ確実に残っているアルコールの影響か、仄かに上気している。佐穂子もそんな聖の後を追って、バックシートに滑り込んだ。
 後部座席は俄かに騒がしくなる。佐穂子が三吾のファンに対する接し方について何やら文句を言い出したらしい。そんな会話をBGMに、弓生は車をスタートさせる。
「うひゃ〜、たいして降っとらんと思って油断しとったら、濡れてしもうたわ」
 ふるふると小犬のように頭を振り、聖はぼやきながらシートベルトを閉めて、隣の弓生に視線を移す。弓生はチラッと聖を見やった。一瞬絡み合った視線が何を意図したのか…。
 聖は笑みを返して、告げた。
「なぁ、ユミちゃん、後でコンビニ寄ってや。買いたい物あるねん」
「分かった」
 聖の要求に短く応えて、弓生は黙り込む。
 車は、深夜の交通量の少ない道路を、走り抜けていった。











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