I Lost Words. #3




 その音にはまったく反応しない英二を見て。一瞬迷ったものの、大石は立ち上がって玄関に向かう。覗き窓から外をうかがえば。
「・・・・・・あれは」
 見覚えのある顔に、慌ててロックを外し扉を開けた。
「海堂じゃないか!」
 そこに立つのは、テニス部の後輩である、海堂薫だった。
「―――大石先輩?」
 大石がここにいるなど、海堂にとっては予想外の出来事だったのだろう。目を見開いて驚いた海堂の肩を、大石はすがるような思いで掴んだ。
「大変なんだ、英二がっ」
 その言葉に、海堂の顔が険しくなる。
「ちょっと、見せてください」
 大石を押しのけるようにして海堂が部屋にあがる。そして。
「菊丸先輩っ」
 呼びかけるけれど、英二はうずくまったまま。海堂は、小さく舌打ちをして。
「大石先輩。申し訳ないですけど、ちょっと外に出ててもらえますか?」
 固い声でそう言うなり、海堂は英二の横にしゃがみこんで、小さく震えるその体を抱きしめた。抱きしめながら、耳元で何かを囁いているのか。徐々に、英二の体の震えが収まっていくのが、判る。
 大石は、不思議な物をみるようにその光景をしばらく眺めていて。
 顔を上げた海堂に、キッと睨まれ。
「あ、あぁ、判った」
 ようやくうなずいて。扉を開けて外に出た。




 どれくらい、待っただろうか。
 明確な意図で触れらた場所。酔った勢い、なのかもしれないけれど。
(英二は、俺に一体何をしようとしたのか・・・・・・)
 思い付く一つの結果を認めたくなくて、玄関の扉に背を預けて大石が逡巡していると。
 カチャリ、と扉を開こうとする音と衝撃に、大石は姿勢を正した。扉を開けたのは、海堂で。
 海堂は、大石を中に招き入れるのではなく自分が外に出てきた。
「ちょっと、いいッスか?」
 大石がうなずくと、英二から預かっているのか慣れた様子で鍵を掛け、無言のまま歩き出す。
 英二が済むマンションを出て、向かったのは人通りの途絶えた公園。
「ここで、いいッスか?」
 古ぼけたベンチに座った海堂の横に、大石も座った。寒くはない時期だけれど、まだアルコールの残った体には夜風が気持ちいい。
「菊丸先輩。大石先輩に、その・・・・・・何か、しましたか?」
 言葉を選ぶように訥々と問う海堂に、大石は一瞬口篭もる。
「何か、っていうか。その、まぁ、少し」
「やっぱり」
 大石の言わんとする意味は、それでも伝わったのだろう。海堂はふぅ、と一つ溜め息を吐くと。
「大石先輩には、話しておいたほうがいいかもしれないッスね」
 そう呟いた後に、海堂の口から語られたのは。大石にとって余りにも衝撃的な話だった。

 その事故―――と言うよりも事件は、大学1年の夏休みに起こったらしい。
 アルバイトを始めた英二は、連日帰宅時間が深夜を超える毎日だった。いつもは自転車で通う家からバイト先までの道は、深夜ともなれば歩く人もなく、街灯も少ない。
 自転車で約20分。
 運動部で鍛えた英二にとって、体力的にはたいした距離ではない。
 しかし、その日は少し事情が違った。行きには調子良く走っていた自転車のタイヤが、バイトを終えて帰宅しようとした時にパンクしていることに気がついた。しかし、時間は既に深夜。空いている自転車屋もなければ、動いている公共交通機関もない。
 英二は、仕方なく歩いて帰ることにしたのだそうだ。
 パンクした自転車を押しながら、歩いて帰る道すがら。
 運が悪かったのだ、というにはあまりにもヒドイ出来事。
 海堂も中学時代に、テニスの練習によく使っていた河原のあたりに差し掛かった時。道を塞いで大騒ぎをしているガラの悪い連中と行き会ってしまったらしい。
 酔っ払っていたのか、クスリでもキメていたのか。
 たまたま通りかかった英二に、絡んできたのだそうだ。そして。
 無視をして通り過ぎようとした英二を無理矢理引き止めて。
「まわされた、みたいなんスよ」
 男に、強姦された、っていうのか?
 その言葉はあまりにも衝撃的過ぎて、かえって大石にはピンとこなくて。
 むしろ、搾り出すように辛そうな顔で言う海堂の顔が、とても印象的だった。
 男が、男を、なんて。にわかには信じがたかったけれど。さっき英二の口から、海堂は乾と付き合っていると聞いたばかりの大石でも、同性と付き合うということが実生活レベルでリアルな海堂にとっては、きっと何かしら感じるところがあるのだろうかもしれない。
 大石は、告げる言葉が見つからず黙って聞いていることしかできなかった。しばしの沈黙の後。
「それから、ッス。英二先輩がちょっとおかしくなったのは」
 溜息交じりの海堂の言葉。
「おかしい?」
「大石先輩も、英二先輩に。その・・・・・・誘われました、よね?」
 海堂がちらりと大石の顔を見て、けれど言い辛そうにまた目をそらす。
「あー・・・・・・でもほら、お酒入ってたし、酔った勢い、だろ?」
「そんなんじゃないッス」
 少しだけイライラとじれたように海堂の語尾が強まる。
「不二先輩が、言うには。英二先輩は必死で自分を守ろうとしてる、らしいんですけど」
「どういうことだ」
「辛い記憶の上塗り、みたいなモンだって。そうすることによって、忌まわしい過去を正当化しようとする、無意識の行動、とか言ってたかな。俺にはよくわかんないんスけど」
「それで・・・・・・」
「自分から、不特定多数のオトコ誘って、体ボロボロにして。あんな痩せちまって・・・・・・そのクセ俺が顔を出せば昔とかわんない笑顔で笑うし。もう、見てらんないんスよ」
「海堂・・・・・・でも、俺は英二をそんな風に見たことはないよ」
 学生時代から特別に仲が良かった自覚はある。けれど、大石には英二を性の対象としてみたことなどあるハズもない。そんな彼に突然、迫られたところでどうともできないし、英二とセックスするなんてことはできないだろう。
「で、そう言ったんスよね? ・・・・・・それが、発作の引き金です」
 そんな大石の胸中を、多分、判っているのだろう。溜息を一つついて。
「大石先輩にその気はなくても、大石先輩の言葉とか態度とか、そういうのが英二先輩の中の何かを壊すんですよ。英二先輩の精神状態。どんだけ普通に見えてもやっぱオカシイから」
「ちゃんと、説明してくれないか」
 大石の表情には困惑の色が浮かんでいたが、海堂とて全てを理解しているわけではなく。
「俺も、専門じゃないんでよくわかんないし、そのヘンは不二先輩のが全然詳しいんで」
 もう一人、中・高時代に親しくしていた時運物の名前を、出した。
「不二、か」
 同じテニス部に所属していた不二周助。そういえば、彼とも最近疎遠になっていたな、と大石は改めて思う。中学時代、手塚と並んで青学の天才と呼ばれていた彼は、けれどテニスの世界へは進まなかった。
「不二は確か、経済の専攻だったっけ?」
「そうだったんですけど。今年になって、心理に転向しました」
「心理?」
「英二先輩の、ため、ッス。不二先輩、大学には実家から通ってるんで、連絡取れば会えると思います」
「あぁ、判った」
 大石の返事に、海堂は立ち上がり。
「英二先輩に必要なのは、その、セックスていう行為じゃなくて。あの人の不安ごと抱き締めてあげられる愛情なんです。だから、大石先輩」
 切実な思いを込めた海堂の双眸がまっすぐに向けられて。
「英二先輩を、助けてあげてください」
 大石に向かって頭を下げた。











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