I Lost Words. #5




 英二の寝顔を眺めながら、大石は不二に聞いた話を思い出していた。
 あれから、幾度か海堂を交えて英二と会って。海堂と一緒の時は、心底英二が安心しているのを大石は感じていた。
 そんな風に「普通」の友人のようにまた頻繁に会うようになってしばらくした頃。
 うっかり英二の部屋に忘れ物をしたことを、家に帰り着いてから思い出した。その時には、明日授業が終わってから取りに行けばいいや、くらいに気楽に考えていたのだが。
 一人で英二の家を訪れるのは、最初に英二に誘われた時以来だということも。
 英二の病気が治っていないことも。
 判っていたのだけれどきちんと理解できていなかったのだろう。
 夕方、連絡もせずに英二の部屋に行って現実を目の当たりにした。
 チャイムを押しても反応はなく、留守なのかと思いつつためしにドアノブをひねればそれはあっさりと開いた。
 大石が中を覗けば、人の気配はあるものの物音はしない。
 英二、と声を掛けながら部屋に上がった大石の視界に入ったのは部屋の突き当たりにあるベッドに全裸で横たわる英二の姿だった。
 昼間、あまり外に出なくなっていた英二の肌は白く、ところどころに赤い鬱血と傷が点在している。そして、シーツには血痕。
 大石は瞬時に不二の言葉を思い出した。
 不特定多数のオトコとのセックス。
 目をそらすことのできない事実。
「英二!」
 大石は英二を慌てて抱き起こしたけれど、英二は眠そうに目を擦って大石を見上げて。
「あー・・・・・・大石ー・・・・・・」
 意識が定まらないみたいな頼りなさで。
「英二・・・・・・大丈夫か?」
「んー。平気ー。あーでもお風呂入りたいかにゃ。―――大石ぃ」
「え」
「お風呂。入ろう?」
 この日、大石は初めて英二の生活の現実を思いしらされた。傷だらけの英二を抱きかかえて風呂に入れて。動くに動けないらしい英二の体を洗ってやって。
 ほっとしたのだろう。ベッドに寝かせても、突然やってきた大石にしきりに話しかける英二に。
「英二。辛かったら、俺にいつでも連絡しろ。できるだけオマエの側にいてやるから」
 大石は、こんな英二に何もしてやれない自分が辛くてつい口をついて出た言葉に、まるで子供のような無邪気な笑顔で、うん、と本当に嬉しそうに笑った英二の顔が、大石の脳裏に焼きついた。



 それから、だ。
 こうして、誰かに抱かれて体も心もボロボロになるたびに、英二が大石に連絡するようになったのは。
 完全に寝入って、握っていた英二の手から力が抜けたのを確認してから、大石は手を離した。
 この部屋に初めて来た日以来、英二から大石を口説くようなことはなくなっていたけれど。不二か、海堂あたりから聞いたのか、英二が大石にその事実―――たとえば、英二が見知らぬ誰かに抱かれたこと―――を隠す様子は一切なかった。
「ん・・・・・・」
 英二が小さく呻く。
 そのたびに、大石は英二の頭を優しく撫でてやる。
 よくよく、英二の生活を注意して見ていればすぐに判った。英二は、眠れないんだ、と。
 眠るために覚えた酒。眠るために求めるセックス。
 それは、大石の目から見たら明らかに常軌を逸した毎日だった。
 一度、やはり深夜に英二に呼び出されて駆けつけてみれば。文字通り血まみれの状態で部屋に倒れていたことがあった。
 出血は多かったものの、幸い傷は全て浅かったからとりあえず手当てをして話を聞いたけれど、その言葉はまったく要領を得なくて。自分からしたことなのか、誰かにされたことなのかわからないけれど、床に落ちたハサミの刃についた血の色が、英二の危うさと心の傷の深さを大石に垣間見せた。
 それでも、結局大石が理解できたのは、英二は何か目に見えない不安を抱えて毎日を送っているんだ、という漠然とした事実だけ。
 そうやって繰り返される自傷行為と見ず知らずの男とのセックスを、大石は見過ごせなくて。理不尽と思いつつも、一度だけ言ってしまった。「知らないヤツとするくらいなら、よく知っている、英二を傷つけないヤツとしたほうがいい」と。
 その言葉に、少しだけ考え込んだあと。判った、と笑った顔がひどく寂しそうだったのを大石はよく覚えている。
 そして、その言葉が招いた現実が、今のこの状況。
「よりによって乾と、って・・・あの時と比べて、マシだって言えるのかどうか俺にはわからないよ」
 大石は溜息を吐く。
 多い時には週に2、3度、こうして呼び出されていたのが、最近は少しずつ減ってきていることは確かだし、目立った外傷も減ってきた。けれど、一時は本当にリストカットでもしてるんじゃないかと思うほど傷だらけだった体に残った小さな傷跡が生々しく、日焼けの名残すらなくなった白い体に浮いていて時々目を背けたくなる。
 確かに絆創膏は英二のトレードマークだったけれど。
「こんな不健康な体に、そんなにたくさんの傷跡は、やっぱりどうかしてるよ・・・」
 掛け布団から投げ出された英二の腕。パジャマ代わりの長袖Tシャツの袖が少しめくれて、腕に残った傷跡が見える。高校時代は、細身ではあったけれど運動している人間特有の筋肉質な体をしていたように思うが、今となってはそれも見る影がないほどガリガリに痩せてしまっている。
 そっと握った手首の細さに、改めて愕然とする。
「もう、こんな手じゃ、昔みたいにテニスはできないだろう・・・」
 真夏の暑い陽射しを浴びて汗だくでコート中を飛び跳ねてた英二はもう、いないんだろうか。
 得意げな顔でラケットをくるくる回してみせる英二はもう、見れないんだろうか。
 俺に向かって、まぶしいくらいの溌剌とした笑顔に汗を光らせる英二には、戻れないんだろうか。
「英二――――」
 大石は、自分の無力さに打ちひしがれるように、うなだれる。
「俺は、オマエになんて言ったらいいんだ?」
 不二に言われた言葉が、蘇る。生半可な優しさじゃ、英二は救えない、と。その重さが今になってずっしりと心にしみこんでいく。
「こんなに、助けたいと思っているのに」
 見失った言葉が、まだ、見えない。




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 海堂薫は、なんとなく抱いた嫌な予感に胸を塞がれそうな気持ちでいてもたってもいられなくなっていた。
 時刻は夜10時。
 同性ながらも恋愛関係にある乾貞治とは、大学に入ってから一緒に暮らし始めた。かれこれもう1年以上。
 理系の大学に進学した乾は、サークル活動や家庭教師のバイトなど忙しくしているらしく、帰宅が日付が変わる頃なのも珍しくないのだから、この時間に帰宅しないこと自体は不思議でもなんでもない。
 しかし。
「さっきの電話は、なんなんだよ・・・・・・っ」
 急に、今日は帰らない、と連絡があった。
 共に暮らしていく上である程度のプライバシーは尊重し、お互いの生活に干渉し過ぎないようにしよう、と暗黙の了解で成り立っているから、今日帰らないことを責めるつもりは海堂自身にもない。
 けれど、電話が切れる直前、聞こえた気がしたのだ。
 乾の名を呼ぶ英二の声が。
 最初は気のせいだと思ったが、気になり始めたらどうにもならなくて。思い切って乾の携帯を鳴らしてみても、繋がらなかった。今時圏外の場所などそうありはしない。ということは、意図的に電源を切っているってことだ。
 不安が募る。
 もしも本当に一緒にいた相手が英二ならば。
 乾のことを信じている気持ちも、英二のことを信じている気持ちも当然あるが、それに勝る不安要素にさいなまれて海堂の眉間に深く皺が刻まれる。
「くそっ」
 海堂は、握った拳を軽く床に打ち付けた。フローリングに、コン、と小さく音が鳴る。
「乾先輩、頼むよ・・・・・・」
 今から、英二の家に行ったら間に合うだろうか。
 海堂の頭をふとそんな予感がよぎるが。万が一、そういう現場に出くわしてしまったら、と思うと結局動けずに。まんじりともせぬまま時間だけが過ぎていく。
「ホントに帰ってこねぇつもりかよ・・・・・・」
 携帯に入れたメールの返事もまだ、ない。ためしに英二の携帯も鳴らしてみたが、こちらも留守電に繋がってしまう。
 海堂は、普段は乾と二人で眠る広いベッドに寝転がって、時計を睨みつけた。
 遅々として進まない時計の針との睨めっこしているうちに、こんなことでイライラしてしまう自分に憂鬱になる。
「たとえ相手が英二先輩だったとしても、なんもねぇよな・・・・・・」
 出来ることなら信用して、こんなことで心配なんかしたくはない。
 それでも、ここまで不安になるのは。
「乾先輩が、いまいち信用できねぇ」
 青学の大学には進まなかった乾は、そのまま上に上がった同級生達とも疎遠で最近はあまり連絡も取っていないらしい、というのは海堂も知っていた。
 海堂自身もあまり口数が多いほうではないから、英二の状態もそんなに詳しく乾に説明したことはない。
 だいたい、英二と乾自体、高校を卒業してから一度も会っていなかったんじゃないかと思う。
 それでも、海堂があれだけ頻繁に会っているのだから当然話題には出るし、事情もそれとなくは話してあるが。
「何にもなければいい・・・・・・」
 海堂は、祈るような気持ちで目を閉じた。



 翌朝。
 そのままうとうとと眠ってしまった海堂が目を覚ましても、やはり乾は帰ってきていなかった。











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