I Lost Words. #6




 海堂は昨日の不安が頭から消えないまま学校には行ったものの、授業には身が入らず。
 様子がおかしいのを桃城に見咎められ、テニス部の練習は止められた。余計なお世話だ、と思ったが久しぶりに顔を出していた不二先輩にも止められて、仕方なく早々に家に帰ってはきたが。
「家に帰ってきたって、なんもする気になれねぇよ・・・・・・」
 常ならば、夕飯の支度や掃除も自ら進んでする(というか、どちらも乾に任せるとロクなことにならないと学習した)が、今日ばかりは。
「飯食う気にもならねぇ・・・」
 リビングのソファにだらしなく転がって、ぼんやりと夕方のニュースを見ていると。
 玄関からカチャリ、と音が聞こえた。
「え、乾先輩・・・・・・?」
 音に驚いて玄関先に顔を出せば。
「やぁ、海堂。帰ってたのか」
 深夜遅くに帰ってくることも珍しくない乾が、そこに居た。薄く笑顔を浮かべた表情は、常から変化に乏しいせいで見分けづらいが。
「・・・・・・先輩?」
 海堂は、少しだけ違和感を感じる。
「どうした?」
 変わらないその態度が、むしろ何かを隠しているんじゃないかと思うのは杞憂だろうか?
「昨日、どこ行ってたんスか?」
「・・・・・・大学の、友達のところだけど?」
「本当ッスか?」
「信用しないの?」
 海堂は、心を覆うなんだかわからないもやもやに戸惑いながら、乾の顔を睨みつける。
「昨日の、電話」
 一瞬、乾の表情に何か違うものが走ったような気がしたのも、気のせいか?
「英二先輩の声が聞こえた気がしたんスけど」
「気のせいだろう。酒も飲んでたし」
 疑い出せばキリがないことも、たとえ乾が本当のことを話しているのだとしても、今の自分には信じられないのかもしれない、と頭の片隅で思いながらも海堂は無理に自分を納得させようとした。 
「そうッスか」
「海堂?」
 しかし、口だけは納得したようなことを言ってみたところで、やはり顔には出てしまっているのだろう。乾の顔に苦笑が浮かぶ。
「納得してないって顔だね」
 伸ばされた手が、海堂の頬を包む。
 触れた手の平が頬を撫でて、軽く顎を掴まれて乾の顔が近づいてくる。
 唇に唇が触れる直前、海堂は乾の体を押し返すとそのまま背を向けて部屋に戻った。背中に乾の溜息が聞こえたが、気付かぬフリで海堂は自室に閉じこもった。





 翌日。
 結局消えないもやもやのせいでしっかり眠れないまま朝を迎え。意を決して、海堂は英二を訪れた。突然の来訪に驚きながらも英二は海堂を招き入れて。
「海堂、いきなりくるんだもん何もないよー。とりあえずコーラでいい?」
 いつもと変わらぬ態度に、海堂はやはり自分の考えすぎだったのか、と思い始めた。
 しかし、見回したテーブルの上に置かれた灰皿。残された吸殻は、乾が吸っているものと同じ銘柄。
 なんだか、コメカミが痛む。
「英二先輩」
「にゃにー?」
 英二の気の抜けた声も今の海堂には全てツクリモノに見えてくる。
「最近、乾先輩と会いました?」
 単刀直入な海堂の言葉に、一瞬だけ。英二の背中が強張ったような気がした。
「んー? いぬいー?」
 問い返す声はいつもと変わらないけれど。
「はい」
 海堂の声が、微かに震える。
「えー、なんで?」
「乾先輩が俺に電話した時。後ろに英二先輩の声が聞こえた気がしたんですけど」
「え、えっと」
 コーラのペットボトル片手に冷蔵庫の前で立ったまま、英二が困ったように頭を掻く。
「乾は、なんて?」
「会ってないって言われたッス」
 海堂は、その姿を見ながら血が下がっていく感触というのを初めて味わっていた。
「じゃ、会ってない、でいいじゃん?」
「だから、それを英二先輩にも聞きたいんスけど」
「会ってないよっ」
 言いながら、あたふたと挙動不審な英二の真後ろに海堂は立った。
「会ったんスね?」
 ほとんど自分と変わらない身長の英二を睨むように見下ろすと、くるっと振り向いた英二が満面の笑みで海堂に笑う。
「にゃは、バレちった?」
「英二先輩・・・・・・」
 英二の笑顔に海堂は戸惑う。
「ごめんにゃー、薫ちゃん。だって乾、優しかったんだもん。薫ちゃんはいいね、いつも乾に優しくされてんだよね?」
 何が、言いたいのか海堂の思考が追いつく前に。
「薫ちゃんが羨ましい。乾の手があんなにあったかいの、俺知らなかったよ」
「え・・・・・・っ」
 乾が、英二に、触れた―――。
 紛れもない事実に、海堂を眩暈にも似た感覚が襲う。
「俺、帰ります」
 感情が追いつかずに、今聞かされた事実が脳内を空転して目の前がチカチカするのに必死で耐えながら、海堂は今入ってきたばかりの英二の家の玄関に向かった。
「もう帰っちゃうのぉ?」
「・・・・・・スンマセン」
「えー、もっとゆっくりしていきなよー」
 英二の気の抜けた言葉に、海堂の中に芽生えかけた英二に対する怒りは自然と落ち着いてしまう。
(今の英二先輩には判らないんだ、俺が英二先輩に怒ったってしかたねぇんだよ)
 無理にでも感情を押さえつけると、海堂はもう一度英二を振り返って。
「失礼します」
 それだけ言って頭を下げた。
 怒りよりもむしろ悲しくなってくる。
 これまでの英二の姿を見てきた海堂には、英二を責めることはできないと思うのに。理性と感情のバランスが崩れる。
 海堂は逃げるように部屋を飛び出ると、さっき自分が乗ってきたまま止まっていたエレベーターに飛び乗った。
「据え膳ならなんでもいいのかよ・・・っ」
 小さく呟けば、自然と涙がこぼれる。英二に対する怒りよりもむしろ。考えナシとしか思えない乾の行動に腹が立った。
「あの最低野郎」
 昨夜の乾の顔を思い浮かべて悪態を吐くが、瞼の裏が痛くなる感触がなくならない。
「あんなヤツのために泣いてられっかよ」
 涙がこぼれないように、海堂は上を向いた。
 行く宛てもなく歩き出したものの、家に帰る気にもなれなくて。英二の住むマンションの近くにある小さな公園で、立ち止まった。
 この寒い季節、日も沈んだ後となっては公園で遊ぶ子供も居ないらしく閑散としている。
 錆びた小さなブランコに腰かけて小さく揺らしながら空を見上げれば、光を失いかけの曇り空。
 これからどうするべきか。
 海堂の頭はぽっかりと白く飛んでしまっている。しばらくぼんやりとしていると。
「海堂じゃないか!」
 呼ばれて顔を上げれば、そこには見知った顔があった。
「大石先輩・・・・・・」
 英二の所へ行く途中に佇む海堂を見つけて、大石は声をかけた。
「どうかしたのか?」
 その顔は、慈悲とでもいえるような笑みを浮かべていて。海堂には、その笑顔が爛れたような今の気持ちを逆なでするみてぇだ、と思った瞬間。
 ふと、疑問が過ぎる。
 最近頻繁に英二の家に出入りしているらしい大石を、海堂は見上げた。誰も信じられない疑心暗鬼の心には、大石のこの笑顔さえも自分を裏切っているように見えてしまう。
 この人はもしかして。
 人のよさそうな笑みを浮かべてはいるけれど、俺を見る目がどこか違う?
 海堂の中に生まれた一つの仮説。
「・・・・・・大石先輩は、知ってたんスか?」
 もしも英二と乾の間に本当に何かがあったのならばこの大石が気付かないハズがない。それに、海堂と乾のことを知っているのは既に英二から聞いている。
「え?」
 大石の表情が、僅か引きつったのを見て、海堂が追い討ちをかけるように言葉を繋ぐ。
「英二先輩が、乾先輩とヤったこと」
「あ・・・・・・」
 思わず海堂の口からこぼれた疑問に、大石は体を堅くした。うまくごまかすことも出来ず、だんだんと鋭く尖っていく海堂の視線にさらされ、何かを言わねば、と開きかけた口を結局何も言えずに閉ざした。
「やっぱり知ってたんスね」
「ごめん」
 海堂の暗く沈んだ声に、大石はただ謝罪の言葉しか返せず。
 しばしの沈黙の後、小さくうなるように海堂が答えた。
「別に大石先輩が謝ることじゃあないッス」
「いや、でも」
「俺に謝るくらいなら、早く英二先輩をなんとかしてくれればよかった」
「海堂・・・」
 海堂の声に苦しさが滲む。
「大石先輩は、英二先輩のことをどう思ってるんスか」
「どうって」
 視線を落とせば、何かを押しつぶすような勢いでぎゅっと握られた海堂の拳が目に入る。
「そりゃ、今の英二を助けてやりたくて・・・」
「所詮、同情ッスか」
 はき捨てるような言い方に、大石は海堂に視線を戻した。
「え」
「そんで、俺に対して謝んのも同情ッスか」
「海堂」
「大石先輩がそんなだから乾先輩まで・・・・・・っ」
 耐えるように歯を食いしばり大石を睨みつける海堂に、大石は何も言えない。
 二人の間を、冬の気配が色濃い冷たい風が通り過ぎた。
 大石を睨んでいた海堂の目が一瞬迷うように緩んで。結局、海堂はそれ以上は何も言わずに大石に背を向けた。
 黙って歩き去る海堂の後姿を見送りながら、大石は溜息をついた。投げつけられた言葉は、ずっしりと重く心に圧し掛かる。
「同情って・・・・・・。心から可哀想だと思って、俺は英二に何かしてやりたくて。そんな気持ちも全部、同情って言葉で一括りにされてしまうのか」
 大石の心にある英二に対する気持ちも、まだ、見えない。











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